中国地方
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この項目では、日本国内の一地方について説明しています。その他の用法については「中国 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

中国地方のデータ
5県の合計
日本
面積31,920.98km2
推計人口7,026,062人
(2024年3月1日)
人口密度220.1人/km2
(2024年3月1日)
位置
中国地方の位置

中国地方(ちゅうごくちほう)は、日本の地域の1つで、本州西部に位置する地方人口最多および最大の都市広島県広島市
概要
名前の由来

「中国」地方という呼称の由来ははっきりしていない。日本神話に、葦原中国(あしはらのなかつくに)または豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)が日本全体の名称として登場している。一説には古代畿内を中心に令制国を「近国」「中国」「遠国」に区別したとき、この地方のほとんどが「中国」に相当したからだとされている[1]

明治時代内村鑑三広島人と山口人を「中国人」と呼んだ。一方現在混同しやすい大陸中国のことは、仏教界では古代インドが中国を称した「チーナ」の漢語訳「支那」「震旦」「真丹」を用いており、日本の仏教界でもこれらの用語を用いてきた。仏教界以外では、「唐土(もろこし)」の用語も用いられていた。江戸時代中期に西欧での呼称Sinae(ラテン語)の当て字として仏教界で用いられてきた「支那」が発見され、明治期以降、歴代の王朝名とは別に、地域的呼称、通時代・王朝的汎称として大陸中国を「支那」と言い換えることが行われ、日本人にとっての「中国」は日本の「中国地方」の意味合いが強まった。

文献上の早い例は、南朝 : 正平4年/北朝 : 貞和5年(1349年)に足利直冬備中備後安芸周防長門出雲伯耆因幡の8カ国を成敗する「中国探題」として見られる(「師守記」「太平記」)こと、翌1350年高師泰足利直冬討伐に「発向中国(ちゅうごくにはっこうす)」(「祇園執行日記」)、1354年将軍義詮細川頼有に「中国凶徒退治」を命じた(「永青文庫文書」)こと等。南北朝時代中頃には中央の支配者層に、現在の中国地方(時には四国を含めた範囲)がほぼ「中国」として認識されていた。また、中央政治権力にとって敵方地、あるいは敵方との拮抗地域であった[2]天正10年(1582年)には、豊臣秀吉による中国大返しと称された軍団大移動もあった。とはいえ、この当時の「中国」の呼称は俗称に過ぎず、日本の八地方制度の1つとして「中国地方」とされるのは大正時代以降である。大陸において「中国」と称する国(中華民国)が成立した明治末期において、日本では府県は「行政上の区画」とされており、地方区分は、当時「地理上の区画」と呼ばれた令制国の区分をもとに、五畿八道が使用されていた。

また、旅行業などを中心に、日本海側の称である山陰瀬戸内海側の称である山陽を合わせて山陰山陽地方(さんいんさんようちほう)の呼称を用いることもある。「陰陽」(いんよう)と称する事例もあり[3]、特に山陰と山陽を結ぶ交通手段については、古くから「陰陽連絡」という語句が用いられている[注釈 1]

東国に対して西国(さいごく)と呼ぶこともあり、現代では例外的となっているが、かつては多用されていた呼称である。また、より広域的に四国地方と合わせて、中国・四国地方(中四国)と呼ぶこともある。また、国の中国とは関係ない。
地理中国地方の主要地形国際宇宙ステーションから見た中国地方と四国中国地方の衛星画像
気候

中国地方の気候は山陰と山陽で大きく異なる。内陸部は緯度の割に寒冷なのが特徴で、東北地方の同標高の地点より低い気温観測する場合もある。山陰は日本海側気候で、にはが多い。鳥取県全域・島根県内陸部・岡山県北部の一部・広島県北部の一部は豪雪地帯となっている。一方、山陽は瀬戸内海式気候で年間を通してが少ないが、山口県・広島県など西部では梅雨暖湿流の影響を受けやすく大雨となることがある。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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