中国回教協会
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この項目では、中華民国(台湾)のイスラーム組織について説明しています。中華人民共和国のイスラーム組織については「中国伊斯蘭教協会」をご覧ください。

中国回教協会中國回教協會
Chinese Muslim Association

略称回協
CMA
前身中国回民抗日救国協会
中国回民救国協会
中国回教救国協会
設立1938年(中国本土)
1958年(台湾)
設立者白崇禧
設立地 中華民国漢口[1]
種類宗教団体
本部台北清真寺
所在地 中華民国台湾台北市大安区新生南路二段62号(台北清真寺[2]
ウェブサイト ⇒www.cmainroc.org.tw
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中国回教協会
台北清真寺
繁体字 中國回教協會
簡体字 中国回教?会

発音記号
標準中国語
漢語?音Zh?ngguo Huijiao Xiehui

中国回教協会(ちゅうごくかいきょうきょうかい; : 中國回教協會; .mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Zh?ngguo Huijiao Xiehui)は、中華民国台湾)のイスラーム組織。台湾で最大のイスラーム組織であり、台北清真寺など台湾のモスクの多くを運営している。回教は「イスラム教」の意。

日中戦争中の1938年、以前から日本が進めていたムスリム懐柔政策に対抗して、当時中華民国首都であった漢口にて中国国民党の軍人である白崇禧を中心としてムスリムの全国組織を作るために設立された。1949年、日中戦争終結後に始まった国共内戦中国共産党に敗れ台湾へ撤退することになった国民党とともに台湾へ渡り、1958年に復会した。その後はイスラーム諸国との関係発展を目指す台湾政府の支援を受けながらムスリムの地位を向上させるための活動を行い、公的機関と連携しながらハラール認証やムスリムフレンドリー化などを進めている。
現況

中国回教協会の会員数は1997年の時点で7000人余りである[3]。現在、台湾には約30万人のムスリムが在住しているが、これらの多くは出稼ぎ労働者で[4][注釈 1]、多くは回教協会には加入していないため、会員数は台湾の定住ムスリムの数とほぼ一致している[5][6]

中国回教協会は、イスラーム諸国との関係を重視してイスラームを尊重する姿勢を示している台湾政府からの支援を受けており、ムスリムの義務のひとつであるマッカ巡礼には政府から補助金が出されている。協会の運営資金は主にムスリムによる募金から賄われているが、地方自治体や政府からの助成金も資金源の一つとなっている。また、サウジアラビアメッカに拠点を置く国際NGOのムスリム世界連盟からの支援も受けている[7]
歴史
結成の背景

末から中華民国初期、アホンと呼ばれるイスラーム宗教指導者などのムスリム知識人たちは、西アジアを訪れて新鮮なイスラーム知識を学び、マッカへの巡礼を行うようになっていった[8][9]。本場のイスラームに触れた彼らは中国イスラームの改革の必要性を感じ、1912年、アホンである王浩然北京で中国回教倶進会を発起した[10]。倶進会は各地のムスリム代表者や資産家の支持を受け全国に支部を建立し、徐々にではあるが全国規模の組織になろうとしていた[9]。しかし、国民政府は、1936年、北京政府時代に段祺瑞の属下だった、回族馬良らが創設を画策した「中華回教公会」を公認。同年、倶進会は国民政府の方針に従った北京市によって解散させられた[11]。しかしながら、その中華回教公会も、馬良の個人的野心を嫌うムスリム知識人層の反発を招いてすぐに立ち消えた[12]

その結果、日中戦争直前、中国には全国規模のイスラーム組織は存在しなかった。しかし、以前から中国への進出を進めていた日本は、当時5000万人いたというムスリムや回族の戦略的価値にいち早く目をつけており、満洲事変後の1933年3月に内蒙古の回教工作のため、善隣協会の前身である日満協会を東京で、1934年に満洲伊斯蘭協会を満洲で設立し[13]、次に内蒙古に「西北回教総連合会」を設立した[14]日中戦争勃発後の1938年2月、北京の牛街清真寺にて中国回教総連合会を設立し[15]、顧問としてイスラーム学者の三田了一を任命した[14]。また、各地に回民小学校や、ムスリムの貿易商を宿泊させるための回民会館を作り、地元のイスラーム指導者や有力者をそれらの施設に起用した[16]。そして、1939年6月22日、東亜経済調査局の所長であった大川周明は「支那回民諸君に告ぐ」という一文を発表し、その中で「過去に於いてかく輝かしい閲歴をもつ支那回民はいまや再び決起せんとしつつあるのである」と述べた[17]
結成までの道程初代理事長の白崇禧

満洲事変以来、イスラームに限らず様々な宗教において日本への抗戦の動きが見られたが、日中戦争勃発によってその流れは加速され、宗教を核に団結して日本に立ち向かうという機運が高まった。かねてより全国規模のイスラーム組織の設立を目指していた王静斎[注釈 2]は時子周[注釈 3]と共に1938年1月、鄭州で中国回民抗日救国協会(以下、抗日協会)を発足させ、1月10日には設立宣言と宗旨を含んだ「中国回民救国協会宣言」を発布した。抗日協会は同年2月、漢口(現在の武漢市)で行われていた国際反侵略運動大会中国分会の反侵略運動宣伝週間で、全国のムスリムを代表して侵略活動への反対を表明した。また、それに触発された地元のムスリムがモスクで反侵略大会を挙行し、全国からムスリムの代表など来賓1000人が参加した。その中には国民党中央宣伝部部長の邵力子など政府要人の姿もあった。また同年4月に漢口で、抗日戦争に参加すべく、ムスリムによる「漢口市回民戦地服務団」が組織された。これは同年8月に「中国回民青年戦地服務団」に改組され[注釈 4]、迫りくる日本軍を前にして全国でムスリムの団結が進んだ[19]

1938年4月、ムスリムであり国民政府の軍事副参謀総長であった白崇禧が、漢口に滞在している折に反侵略大会の来賓として集まった全国のイスラーム指導者たちと全国規模の組織の設立について協議し、抗日協会を拡大して中国のムスリムの中心組織にすることを決定した。同年5月に漢口で成立大会を開き、白崇禧を理事長、時子周と唐柯三[注釈 5]を副理事長とする中国回民救国協会(以下、回民救国協会)が発足した。全国組織を目指す回民救国協会が漢口で発足したものの、当時の漢口には刻一刻と日本軍が迫っていたため、陥落間近の同年8月、回民救国協会は国民政府と共に重慶へ移り、1939年7月に第1回全国会員代表大会を開催した。大会では協会の改組を行い、また、名称を中国回教救国協会(以下、回教救国協会)に改めた[注釈 6]。このようにして国民政府唯一の公認イスラーム組織が誕生した[21][注釈 7]


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