中国史時代区分論争
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中国史時代区分論争(ちゅうごくしじだいくぶんろんそう)は、東京学派歴史学研究会)と京都学派の間で行われた東洋史学上の論争。単に時代区分論争とも。
概要

大正期内藤湖南が提唱した唐宋変革の位置づけについて、京大の内藤湖南宮崎市定らによる「中世から近世への変化」とする学説(京大説)と、東大の前田直典西嶋定生らによる「古代から中世への変化」とする学説(歴研説)を巡って激しい論争が行われた。

京大説と歴研説[1]時代 六朝 民国 -
世紀前12C -3C -10C -20C -
京大説古代中世近世最近世
歴研説古代中世近代

論争の展開
内藤の唐宋変革論と時代区分「唐宋変革」も参照

戦前の内藤湖南は唐宋変革論を提唱した。それ以前は「唐宋八大家」のように、唐と宋の連続性を重視する見解が主流であった。これに対して唐宋変革論は、唐と宋を中国史上でも国家財政や経済文化の大変動が起きた時代と位置づける。後の時代区分論争においても、両派とも唐宋間で区分する点では共通していた。

また、内藤没後に出版された講義録『支那上古史』[2]によれば、内藤は「上古」、「中世」、「近世前期」、「近世後期」の四期区分を提唱していた。この区分では、「上古」と「中世」、「中世」と「近世前期」の間に「過渡期」が設けられている。

『支那上古史』の時代区分[3]時代開闢 - 後漢中頃後漢後半 - 西晋五胡十六国 - 唐中世唐末 - 五代宋 - 元明 - 清
区分第一期第一過渡期第二期第二過渡期第三期第四期
上古中世近世
前期後期前期後期

内藤は各期について以下のように説明している。
第一期 上古
前後の二期に分ける事ができるが、その境界は曖昧である。前期は支那文化が形成される時代、後期はその文化が外部に発展し、「東洋史」に変形する時代である[4]
第一過渡期
支那文化の外部発展が停止した時代である[4]
第二期 中世
外部種族の自覚により、その勢力が反動的に支那内部に及んだ時代である[5]
第二過渡期
外来の勢力が支那において頂点に達する時代である[5]
宮崎市定の「世界史年表」

内藤が指導教官の一人であった宮崎市定は、内藤の区分を受け継いだ上で、更に西アジア・西洋史を視野に入れて以下のような「世界史年表」に発展させた。この年表では、「古代」、「中世」、「近世」、「最近世」の四期区分が用いられ、過渡期は曲線を用いて表されている。

『東洋的近世』の「世界史年表」[6]西暦前4001400100014001800
東洋古代中世近世最近世
西アジア古代中世近世最近世
ヨーロッパ古代中世近世最近世

各時代・分野での論争
秦漢帝国の支配形態

西嶋定生1949年1950年に発表した論考(西嶋旧説)で、高祖の配下集団に見られる中涓・舎人・卒・客といった言葉に着目し、これを家内奴隷的・擬制家族的な存在であるとし、高祖集団を戦闘集団ではなく生活集団であるとした。そしてこの高祖集団の有り様は当時の豪族一般に通ずるものであり、この形態こそが当時の社会経済の主な部分を担っており、漢帝国と皇帝という関係もまたこの形態を取っているとした。西嶋はこれを奴隷制が中国的な展開をしたものとみなし、漢帝国が奴隷制国家であったと論じた[7][8][9]

これに対して様々な方面から批判が寄せられたが、その中で最も重要なものが増淵龍夫によるものである。増淵は、西嶋の高祖集団に対する理解は正しいとする。しかしそれを即座に敷衍し、奴隷制といういわば外形からのアプローチのみで理解することが正しいことであろうか、との疑念を出し、当事者たちの内部、心的部分までに踏み込まねば真の理解は得られないとした。春秋時代以前においては集落()は同一氏族が一緒になって生活する場であり、その中での成員の変動というのはほとんどなかった。しかし戦国時代以降は集落の中から外へ、外から中への移動が激しくなっていた。その中で血縁という絆を持たない者同士が新しく人間関係を築く際の絆とされた者が戦国四君などに見られる「恩を恩で返す」というような任侠精神である。この任侠精神は、当時の社会の外に存在していた遊侠などに限定されたものではなく、西嶋が言ったような家内奴隷的集団を内側から支える役割をなしたものであるとする[10][11]

またこれに加えて浜口重国により、当時の社会において豪族は生産の主たる位置を占めておらず、生産の主たる位置は圧倒的多数である自作小農民である、という指摘が行われた[12]。これらの批判を受けて西嶋は旧説を撤回し、皇帝と小農民との関係性を主眼に置いた新たな論考(西嶋新説)を発表した。これが個別人身的支配論である。西嶋は漢の二十等爵制を分析し、この爵制の目的が、当時崩壊しつつあった旧来の民間集落の秩序を新たな爵制により補填することにより、集落の秩序形成を国家が肩代わりすることで民衆一人一人個別の人身に対して支配を及ぼそうとすることにあったとした[13]

西嶋新説に対して増渕は「その着眼点の非凡さには敬意を表する」としたものの、西嶋新説の皇帝・国家側から一方的に民衆に対して支配力を及ぼす形は、結局のところ西嶋が否定した東洋的専制主義・アジア的停滞論と変わる所がないのではないか、という指摘を行い、西嶋の論を「動きの取れない構造論」と批判した。そして、西嶋が「個別人身的支配の外の存在」とした豪族と、その支配下にある民とが形成する共同体こそが、個別人身的支配を現実的に実現する媒介の役割をなす存在であるとした[14]
宋代の経済

戦後の宋代史研究では生産の諸関係について、どれが基本的生産関係なのかその性格は何か種々の論争がされた。
唯物史観と「生産関係」

戦後の歴史学界、とりわけ歴史学研究会の研究者の大きな影響を与えていたのが、唯物史観である。その認識は以下を骨子とする。

人間が生きていくゆえで大事な事は衣食住など諸生活手段の生産である。農業用の田んぼ水利事業など農業用地を改善した[15]

労働によって生産するのが経済で人間の諸活動の根源的なものである。人間は通常家族を構成して生産して互いの諸関係を結んでいる。賤民や奴婢が公的法的に宋代に姿を消していた[16]

農業をする労働者(小作人)で家族を構成しないもの奴隷であり、中国の史料用語で奴婢であり、1つ目は奴の男性がある。2つ目は婢の女性の奴隷である。奴隷は普通は大土地所有者(一般的の大家族を構成している)の下で農業生産に従事している。このような生産関係を奴隷的生産関係と言う。家族保有している大土地所有者に土地を借りて耕作行為と地代を納める。西欧のカテゴリーでは農業労働者の小作人の事を農奴と言う(中国では佃客と言う)このような大土地所有者を農奴の生産関係を封建的と相互で農奴制的生産関係の土台で成立している社会を封建社会と言う。人間は社会は個人及び家族構成や自分だけで生産を行えない。他のものと関係を結んで可能だったのである。

この生産をめぐる関係を生産関係と言う。その事に基づいて大土地所有者の直接生産者から余剰労働から収取関係や階級関係と言う。1つの社会通常複数の生産関係から成り立ち総称して生産諸関係の総体を生産様式と言う。生産諸関係について。基本的な生産の在り方はその社会の3つの性格がある。経済社会の生産システムの性格分類@は古代奴隷制社会である。生産システムの性格分類Aは中世封建社会である。生産社会の最後の歴史性格の現代経済社会のシステムはB近代資本主義社会である。@古代奴隷制社会A中世封建社会B近代資本主義の3つの社会が生産システムを決定する。

宋代社会は大土地所有者の地主から土地を借りて耕す佃戸と奴隷がいて自分の小さい土地を私有して家族労働により耕す自作農がいる。


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