中国人民志願軍
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「抗美援朝」と大書された、朝鮮戦争期の中華人民共和国プロパガンダ・ポスター。

中国人民志願軍(ちゅうごくじんみんしがんぐん、中国語: 中国人民志愿?)は、朝鮮戦争に参戦した中華人民共和国の部隊の名称。初代司令員は、彭徳懐が担当した(政治委員を兼任)。人民義勇軍、抗美援朝義勇軍[注釈 1]ともいう。
概要
派遣の背景

1950年6月25日に始まった朝鮮戦争は当初、朝鮮人民軍が優勢であったが、アメリカ軍を主体とした国連軍仁川上陸作戦により形勢は逆転し、国連軍は平壌占領、一部部隊は鴨緑江の線に達した。1949年に成立したばかりの中華人民共和国は当初介入に否定的だったが、国連軍の接近のために参戦を決意する。しかし、中ソ友好同盟相互援助条約を結んでいたソ連と中国は米国との全面戦争(第三次世界大戦)によって朝鮮半島を超えてソ連や中国の領土まで戦線拡大で巻き込まれることを回避するため、参戦部隊は事実上の国軍である中国人民解放軍ではなく、表向きは義勇兵であるとして、「人民志願軍」と命名した。

1950年7月7日、周恩来が招集した国防軍事会議において、東北辺防軍の創設が決定され[1]、人民解放軍の正規部隊である第13兵団(第38、第39第40)、および第42軍、等を抽出し編成した。同年10月8日、毛沢東中央軍事委員会主席による「中国人民志願軍の設立に関する命令」が発布され、辺防軍は中国人民志願軍に改編され、彭徳懐が司令員兼政治委員に任命された[2]

当初前線に投入された部隊だけでも20万人、後方待機部隊を含めると100万人に達した。旧間島(現・吉林省延辺朝鮮族自治州)の朝鮮人部隊も多数含まれていた。
参戦鴨緑江を渡る中国人民志願軍。

1950年10月19日に中国人民志願軍は参戦し、山岳部を密かに南下することによって米韓軍がいる谷間を迂回し、10月25日に山上から米韓軍を攻撃、朝鮮北部の戦線に突如出現した。同日、第13兵団と彭徳懐の指揮所が合併し、中朝連合司令部が設置され、朝鮮人民軍朴一禹の指揮下に置かれた。周囲の丘陵地帯を完全に包囲され奇襲された米韓軍は甚大な被害を受け、驚いて総退却を開始、中国人民志願軍は平壌を奪回したばかりでなく、韓国の首都ソウルも占領した。三角丘の戦い(英語版)で銃撃する中国人民志願軍の兵士。

中国人民志願軍は、朝鮮半島北部特有の山地を遮蔽として利用しながら兵士を殺到させる人海戦術を行い、大挙して迫る中国人民志願軍に対して、国連軍は本来対空自走砲であるM16対空自走砲を歩兵に対して使用するほどであった(5人に1人しか銃を与えられなかったという話があるが、これはソ連軍が初期のスターリングラード攻防戦に於いて準備が整わなかったことと勘違いした可能性がある[3])。

中国人民志願軍が米韓軍と戦闘を交えた地域は大部分が北朝鮮国内であり、韓国国内では4か月の戦闘だった。朝鮮戦争で米韓朝三ヶ国の戦争行為また戦争犯罪の証言があるが、中国人民志願軍の朝鮮戦争での戦争犯罪は詳細にわかっていない。戦線は北緯38度線を挟んで膠着状態となり、1953年7月27日に国連軍総司令官のマーク・W・クラーク大将、中国人民志願軍司令員の彭徳懐と朝鮮人民軍最高司令官の金日成によって休戦協定が調印された。調印の会場となった板門店の名は、会場を開城から現在の板門店の場所に移動させる際に、近くにあった「ノル門」と現地で呼ばれている村の「ノル」が「板」だという意味と知った中国人民志願軍の兵士が、漢字で「板門店」と書き表したことから定着したとされる(中国の関係者は村の名前を店の名前だと認識していたようである)[4]
休戦後北朝鮮住民に防疫活動を行う中国人民志願軍の兵士。

休戦時における中国人民志願軍の兵力は約120万人に達していたが[5]、休戦協定は外国軍撤退問題を、その後の政治協議に委ねていた(協定第60節)。そこで先ず、休戦直後から歩兵6個軍、砲兵・高射砲兵、鉄道兵20個師団を秘密裏に撤退させ[5]、併せて1954年4月に始まるジュネーヴ会談においてアメリカと撤退問題を協議した。しかし、ジュネーヴで合意に至らぬまま、同年9月6日に中国は人民志願軍の撤退を発表した[6]。撤退は1954年から1955年の第一期と、1958年の第二期に分けて段階的に実行され、1958年10月26日に駐留していた全軍の撤退を完了させている[7]。捕虜になった約2万1400人のうち、約1万4000人が中華民国台湾)へ亡命し、残りの7110人は本国へ送還された。金永南(後の北朝鮮最高人民会議常任委員会委員長)のように北朝鮮に留まった兵士もいた[8]

西側諸国では中国人民志願軍の損害を死傷や病死、凍死なども含め約100万人とする見方もあるが(ソ連の公式文書でも中国人民志願軍の戦死者は100万人、ケ小平は非公式の席で日本共産党党首に対し戦死者は40万人と言及、康生エンヴェル・ホッジャに対して同様に発言)、中華人民共和国側の発表によれば志願軍の損害は戦死者は約17万人であった。この中には毛沢東の長男、毛岸英(北朝鮮で戦死)も含まれる。省別では四川省出身の戦死者が3万人で最高となっている[9]

中国人民志願軍が最初に戦闘を行った10月25日は抗美援朝義勇軍記念日とされており、現在、中華人民共和国では北朝鮮内の人民志願軍激戦地を訪問するツアーが盛んである。

韓国朴槿恵大統領の提案で韓国に残った中国人民志願軍兵士の遺骨返還が2014年から始まり、2018年3月時点で589柱の遺骨が返還されている[10][11]
記念事業

中国人民志願軍の参戦によって辛くも38度線以北を確保した北朝鮮では、1951年11月には早くも「最終勝利のために」と題して、朝鮮人民軍と中国人民志願軍の兵士があしらわれた10ウォン切手が発行され、1958年にも中国人民志願軍の帰国を記念した10ウォン切手を発行した[12]。平壌市内にある祖国解放戦争勝利記念館には中国人民志願軍に関する展示は無かったとされるが[13]劉雲山中国共産党中央政治局常務委員の訪朝の際に展示ホールの存在が報じられている[14]。中国でも遼寧省丹東市の抗美援朝紀念館、北京市中国人民革命軍事博物館の抗美援朝戦争館[15]が存在する。

北朝鮮には複数の中国人民志願軍烈士陵があり、開城や安州などのものは改築もされている[16]

特に平安南道檜倉郡中国人民志願軍烈士陵園は、朝鮮戦争で戦死した毛岸英の墓も同所にあることから特に中朝間の「血縁の絆」の象徴となっている。2012年10月の中国人民志願軍朝鮮戦争参戦62周年の際に竣工された。[17]北朝鮮の最高指導者も度々訪れ、金正日[18]やその後継者の金正恩(2010年[19]、2013年[20]、2015年[21]、2018年[17][22]、2020年[17][23])も参拝している。


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