中国人排斥法
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中国人排斥法(ちゅうごくじんはいせきほう、Chinese Exclusion Act)とは、1882年5月6日チェスター・A・アーサーアメリカ合衆国大統領が署名した法律中国人労働者の移住を禁ずる、合衆国史上自由移民に対する最も重い制限の1つであった。1868年米中間で調印された、中国人の自由移民を平等互恵の立場で認めるバーリンゲーム条約[1]に対して、1880年に中国人の移住を停止する旨改正されたことを受け施行。本来は10年間の期限付きとされていたものの、1892年の更新を経て、1902年には恒久的な措置として実施されることとなる。1943年12月17日、マグヌソン法により廃止。
背景

中国人移民の数[1]年人数
1820年 - 1830年3
1831年 - 1840年8
1841年 - 1850年35
1851年 - 1860年41397
1861年 - 1870年64301
1871年 - 1880年123201
1881年 - 1890年61711
1891年 - 1900年14799
1901年 - 1910年20605
1911年 - 1920年21278
1921年 - 1930年29907
1931年 - 1940年4928
1941年 - 1950年16709
1951年 - 1960年9657
1961年 - 1970年96062
大陸横断鉄道を建設する中国人移民労働者

中国人による初の大規模な移住は、1848年から1855年にかけてのカリフォルニア・ゴールドラッシュに始まり[1]、その後も大陸横断鉄道の建設などを受け続行。が豊富にあったゴールドラッシュの初期段階において、中国人は余り受け入れられなかったにしても許容範囲にあった[2]。金が枯渇し競争が激しくなると、中国人と、アイルランド人などその他の移民労働者との対立が表面化することとなる。

しかし1850年代初頭の時点では、州財政赤字を埋める助けとなる程豊富な収をもたらしていたため、移民から中国人労働者を排除する考えには抵抗があった[3]。だが同年代の終わりに近付くにしたがい財政事情は好転し、州レベルでの中国人排除に成功[3]1858年には州議会が「中国人かモンゴロイド人種の」いかなる入国をも違法とする法律を可決するが、同法は1862年最高裁判所から意見が付き却下されることとなる[4]

南北戦争が終結した1870年までには不況のため、ジョン・ビグラーカリフォルニア州知事のみならず、労働組合指導者のデニス・カーニーやカーニー率いるカリフォルニア労働者党[5]により反中感情が政治化し、両者は賃金水準を押し下げる存在として中国人苦力を槍玉に挙げてゆく。

その結果中国人鉱夫に対する差別課税が施行され、労働組合からも中国人が排除された[1]。かくして中国人に対する嫌悪が一般にも広まったものの、一部資本家経営者の中には、経済的な要因に基づき排除に抗した者もいた[6]

中国人移民労働者はほとんどが健康成人男子であったため、安価な労働力を供給する一方、学校病院など公共施設を利用しなかった[3]。時が経つに連れより多くの中国人移民がカリフォルニアに流入すると、ロサンゼルスのような都市において暴力事件が多発。

1878年までには議会が中国人を排除する法律を可決するも、ラザフォード・ヘイズ大統領がバーリンゲーム条約を盾に拒否権を発動することとなる[1]。カリフォルニア州は1879年、何人が州内への居住を許されるか決め、中国人が企業地方自治体で働くことを禁ずる、新たな憲法を採択するに至った[7]

1882年に中国人排斥法が可決されると、後に違憲判断が下される各種法案を通してゆく[8]。これにより、ほとんどの中国人家族は国内に留まるか、帰国するかでジレンマに直面[9]
内容「自由の黄金橋」(ゴールデンゲートブリッジの捩りか)への入国を禁じられた中国人男性を描いた1882年の政治風刺画。「ご存知の通り、我々は『何処かで』線を引かなければならない」とのキャプションが見える1916年11月21日に発行された身分証明書。中国から合衆国に移住するために必要とされた

特定の地域における良好な治安を危険に晒したことを前提として、特定民族の労働者集団の入国を初めて禁止する法律であった(1875年ペイジ法はアジア人の強制労働移民や売春を、1870年帰化法(英語版)では白人とアフリカ系以外の帰化をそれぞれ禁じてはいたが)。熟練及び非熟練労働者を排除した(商人留学生、旅回り人は適用除外[1])他、鉱山での雇用を禁じており、入国に関しては懲役刑や国外追放処分付きで10年間制限することとなる[10][11]

入国しようとする少数の非労働者には、中国政府から移民資格証明書を得るよう求めたが、非労働者であることを証明するのが次第に難しくなった[11]。「熟練及び非熟練労働者や鉱山での雇用」を条件としていたためである。したがって、同法の下で入国が成った中国人は非常に少ない。

既に合衆国内に定住していたアジア系住民にも影響が及んだ。合衆国を離れた中国人は再入国資格証明書を手に入れなければならなかったが、市民権から排除されていたため永久に外国人としての扱いを余儀無くされた[10][11]。法案可決以後、合衆国内の中国人男性は妻と再会したり、新たな家庭を築く機会がほとんど無くなる[10]

1884年の改正により、かつての移民の帰国や再入国が事実上不可能となった他、出身国に関係無く中国人の血を引く者にまで適用範囲が拡大した。1888年にはスコット法が施行され、中国人排斥法施行以後に帰国した場合の再入国を禁止することとなる。スコット法は最高裁判所が「外国人排除の権限は、憲法により委任されたこれらの主権を有する権限の一部として、合衆国政府に属する付帯権利である」と明言。

1892年ゲーリー法により再度10年間更新され、1902年恒久化するに至った[11]。1902年に恒久化した際、どの中国人も居住資格証明書の登録と取得が求められ、資格証明書が無ければ国外追放処分に付せられることとなる[11]。1882年から1905年にかけ、申し立てやヘイビアス・コーパスを通じて10000人程度の中国人が連邦裁判所により、移住の見送りを余儀無くされた[12]

なお裁判所は申し立て人寄りの判断(要するに中国人の事実上の国外追放)をすることがほとんどで[12]偏見や怠慢の場合を除き、これらの申し立ては1894年に議会が可決した法律によって禁じられてゆく。最高裁判所が移住許可の最終的な権限を担うのは、港湾調査官や商務省と再度述べたためである。また港湾での入国拒否は法手続きを求めず、法的には陸上を跨ぐ形での入国拒否に相当するとした。
廃止と現在の地位

中国人排斥法は1943年マグヌソン法により廃止。当時は第二次世界大戦の最中にあり、中国は枢軸国日本に対し合衆国と同盟関係にあったためである。


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