中国の宇宙開発
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この項目では、中国の宇宙開発全般について説明しています。現在の中国宇宙機関については「中国国家航天局」をご覧ください。

中国の宇宙開発(ちゅうごくのうちゅうかいはつ)では中華人民共和国宇宙開発計画全般について述べる。現在の中国の宇宙計画は中国国家航天局によって進められている。

中国における宇宙技術の始まりは、1950年代後半の弾道ミサイル原子爆弾の開発にまで遡ることができる。詳細は「中国の核実験」を参照

中国が本格的に有人宇宙飛行に乗り出すのはその数十年後であったが、2003年、ついに楊利偉を載せた神舟5号の打ち上げに成功する。この成功により中国は世界で3番目に、単独で有人宇宙飛行を成し遂げた国となった。

2006年度の中国科技統計年鑑によると、宇宙開発予算は119.4億、宇宙開発に係わる研究者は3.6万人である[1]
歴史および近年の発達
明の時代

ワン・フーと呼ばれるの高官が宇宙(当時の宇宙像での)を目指して47本の固体燃料ロケットエンジンを使用した有人宇宙飛行の実験を行ったが、搭乗したワン・フーは発射時の爆発により死亡したとされる伝説がある。
中ソ友好同盟時代

アメリカ合衆国朝鮮戦争中、核使用による脅迫を行った後[2]、毛沢東はまだ建国したての中華人民共和国の安全保障には核抑止力が必要不可欠であると確信した。さらに、中華民国が「中国」としての扱いを受けていたこともあって、毛沢東は中国が世界の大国になることを望んだ。

こうして、1955年1月15日に開かれた中国共産党中央委員会の会合で、毛沢東は核兵器とそれに関連するミサイルを含めた、中国独自の戦略兵器の開発を宣言した。中国核兵器計画はコードネーム「02」として扱われた。

「我?不但要有更多的?机大炮,而且?要有原子?。在今天?个世界上,我?要不受人家欺侮,就不能没有?个?西。
"我々は航空機や大砲だけでなく、原子力爆弾も必要としている。今日のこの世界では、他国からの虐げを回避する手段は核無くして有り得ない。"」

赤狩りによってアメリカから国外退去となった銭学森を所長として、1956年10月8日に国防部第5研究所(現:中国運載火箭技術研究院)が設立された。研究所は中国初の弾道ミサイルの開発を始め、計画は1956年3月1日に最初の「中国航空宇宙の12ヵ年計画」として承認された[3]

1957年10月4日にソ連による人類初の人工衛星スプートニク1号が打ち上げられた。毛沢東は1958年5月17日の共産党国民会議の場で、「581計画」を承認し、建国10周年記念の1959年までに人工衛星を軌道上に打ち上げる(我?也要?人造?星)ことによって、他の超大国と同等の存在になるべきだと決定した[4]。この計画はまず観測ロケットを発達させ、次に小型の人工衛星を打ち上げ、最後に大型の衛星を打ち上げるという三段階によって達成される予定だった。

中国初のミサイル実験基地、20基地の建設は1958年4月に始まり、同年10月20日には利用可能となっていた。

1950年代の中ソ関係が良好な間(中ソ友好同盟相互援助条約)、ソ連は中国人学生の育成やR-2ミサイルの提供など、中国への技術提供に協力的であった。中国初のミサイルは1958年10月、R-2をリバースエンジニアリングして複製したミサイルであり、射程は590 km、重量は20.5 トン、推進剤液体酸素アルコールからなった。なお、R-2も元々はソ連がドイツV2ロケットを改良したものである。

中国初の観測ロケットT-7は1960年2月19日に南匯区射場より打ち上げられ、成功した[5]

しかし、ニキータ・フルシチョフスターリン批判や対米政策などが原因で、毛沢東はソ連から徐々に距離を置き始めた。それまで友好的であった中ソ関係は一転して対立状態となり(中ソ対立)、1960年の対立後にソ連の技術的援助は突如無くなった。
中ソ対立後「長征 (ロケット)#歴史」も参照

ソ連の専門家が中国を離れた僅か17日後の1960年9月10日、中国製推進剤が使われたR-2ロケットが打ち上げに成功した。その二ヵ月後、中国の短距離弾道ミサイル東風1号の初の打ち上げが1960年11月5日に行われ成功した。1962年3月21日には準中距離弾道ミサイル東風2号が初めて試射されたが、失敗した。

冷戦が激化していく中、毛沢東は1963年12月に中国のミサイル防衛システム能力を開発することを決定する。1964年2月2日の会議では「640指示」(後の640計画として知られる)が承認された[6]。ミサイルの開発は続けられ、東風2号の改良型東風2号Aの発射試験が1964年6月29日に成功し、1966年には配備が始められた。

1964年7月19日、観測ロケットT-7A(S1)の打ち上げと回収に成功。生物学的実験のため8匹の白鼠を搭載して、603基地(安徽广コ誓?渡中国科学院六〇三基地)より打ち上げられた[7]

1964年10月16日、初の中国核兵器(コードネーム596)が核爆発に成功した。同年10月27日、核弾頭を装備した東風2号Aミサイルが酒泉より発射され、20キロトンの核弾頭がロプノールの標的上空569mで爆発した。1966年11月山西省に国内二ヶ所目となる弾道ミサイル発射実験場、華北ミサイル試験場(?北?????)を建設することが決定する。

1966年12月26日、中国は初の中距離弾道ミサイル東風3号の試験に成功する。

1967年3月、開発中の092型弾道ミサイル潜水艦にあわせて、潜水艦発射弾道ミサイル巨浪1号の開発を始める。

超大国の米ソが月への人類到達で熾烈な宇宙開発競争が頂点に達しているとき、毛沢東と周恩来は1967年7月14日、中国が遅れをとるべきでなく、中国独自の有人宇宙計画を始めることを決定した[8]。1968年1月に中国初の有人宇宙船が曙光1号と名づけられた[9]。1968年4月1日航天医学工程研究所が設立され、中央軍事委員会は宇宙飛行士選定の指令を出した。また、ソ連という新たな脅威に対応して、国境から離れた西昌市の山間部に新しい射場、27基地を建設することが決定した。当時はこの射場から有人ロケットを発射する予定だった。

1968年8月、初の衛星打ち上げロケット、風暴1号(?暴一号)の開発が上海第二機械電気産業局(Shanghai’s 2nd Bureau of Mechanic-Electrical Industry)で始まる。ロケットの2段目は東風5号を利用した。数ヵ月後、これと平行する形で、東風5号をベースにした衛星打ち上げロケット長征2号の開発が北京の第一宇宙学会(First Space Academy)で始まる。

東風4号長征1号の1段目と2段目に使用され、3段用は固体ロケットモータを新たに開発した。1969年11月16日に行った初発射は失敗してしまう[10]

1970年2月11日、日本初の人工衛星おおすみが打ち上げられ、日本に先を越されてしまう。


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