中国の仏教(ちゅうごくのぶっきょう)では、中華圏における仏教について詳述する。現在の中華人民共和国の仏教徒は、1億8500万人から2億5000万人と推定されている[1] 。
中華人民共和国の宗教区分では漢族仏教(大乗仏教)、チベット仏教、南仏教(上座部仏教)の3つに分けられる。「中国の宗教」も参照
歴史仏教のシルクロード伝播
後漢(伝来)「仏教のシルクロード伝播」も参照
中国地域への仏教の伝来は、1世紀頃と推定される。
伝来に関する説話は幾つかあるが、最も有名なのは、後漢の永平10年(67年)の明帝と洛陽白馬寺に纏わる求法説話である。また『後漢書』には、楚王英伝に仏教信仰に関する記録がある[2]。
また、1990年代以降に古代中国に仏教が伝来した時代の遺物の意匠中から仏像と見られるものが発見されるなど、考古学的な面からもこの時代に仏像が伝来していたことが立証されている。恐らく、シルクロードを往来する商人が仏像を持ち込み、それから民衆の間に徐々に仏教が浸透していったものと推定される。
また、後漢末期の武将として小説『三国志演義』にも登場する?融が、揚州に大寺を建立した事で知られている。
桓帝の時期にインドや西域の仏教者が漢土に到来して、洛陽を中心に仏典の翻訳に従事した。なかでも安世高・安玄
・支婁迦讖(支讖)・竺仏朔(竺朔仏)・支曜・康巨・康孟詳・竺大力らが経典の訳出に携わった。また初めての漢人出家者として厳仏調が現れ、安玄の訳経を助けた[3]。この時代の仏教関係の仏教書としては『牟子理惑論』や『四十二章経』など、幾つか挙げられるが、いずれも後世に書かれた物であるとの疑いが強い。明帝の求法説話や摂摩騰の『四十二章経』等の翻訳を架空の創作とすると、中国で初めて仏教の経典を翻訳したのは、安息国(パルティア)出身の安世高となる。安世高は『安般守意経』『陰持入経』等の部派仏教の禅観に関する経典やアビダルマ論書である『阿毘曇五法行経』を訳した。
また『出三蔵記集』巻七、「道行経後記」によれば、霊帝の時期に竺仏朔・支婁迦讖らが大乗経典の『道行般若経』を訳出したという[4][3]。また『般舟三昧経』が光和2年(179年)の10月8日に胡本から漢訳された(『道行般若経』は同年10月18日)。なかでも、『般舟三昧経』が説く般舟三昧は禅観法として受容され、東晋の時代に白蓮社が結成されるに至った。インドや西域など幅広い地域から部派仏教と大乗仏教双方の仏典が時を同じくして相次いで訳された。[3]
三国・両晋・五胡十六国時代玄奘。ナーランダ僧院より仏典を持ち帰った。
紀元3世紀頃より、サンスクリット仏典の漢訳が開始された。この時代は華北のみならず、江南地方でも支謙や康僧会によって訳経が始まり、それと同時に仏教が伝えられた。その一方で、中国人の出家者が見られるのはこの時代からである。記録に残る最初の出家者は、朱士行である。また、この時代の主流は、支遁(314年 - 366年)に代表される格義仏教であった。訳経僧の代表は、敦煌菩薩と呼ばれた竺法護である。
紀元4世紀頃から、西方から渡来した仏図澄(? - 348年)や鳩摩羅什(344年 - 413年)などの高僧が現われ、旧来の中国仏教を一変させるような転機を起こす。前者は後述の釈道安(314年 - 385年)の師であり、後者は、唐の玄奘訳の経典群に比較される程の数多くの漢訳仏典を後世に残している。
仏図澄の弟子である釈道安が出て、経録(経典目録)を作り、経典の解釈を一新し、僧制を制定したことで、格義仏教より脱却した中国仏教の流れが始まる。釈道安の弟子である廬山の慧遠(334年 - 416年)は、白蓮社を結成した。 5世紀になると、『華厳経』・『法華経』・『涅槃経』などの代表的な大乗仏典が次々と伝来するようになる。また、曇鸞(476年 - 542年)が浄土教を開いた。東アジア特有の開祖仏教はこの時から始まる。 またこの時代、北朝の北魏では、太武帝の廃仏(三武一宗の廃仏の第1回目)の後、沙門統の曇曜を中心に仏教が再興され、平城郊外には大規模な仏教石窟寺院である雲岡石窟が開削された。その後、孝文帝が洛陽に遷都すると、仏教の中心も洛陽に移り、郊外の龍門に石窟が開かれた。また、洛陽城内には、永寧寺に代表される堂塔伽藍が建ち並び、そのさまは『洛陽伽藍記』として今日に伝えられている。永寧寺の壮大な伽藍を見た達磨は、連日「南無」と唱えたという。 一方、南朝でも仏教は盛んであったが、中でも、希代の崇仏皇帝であり、またその長命の故にか、リア王に比せられるような悲劇的な最期を遂げることになる、南朝梁の武帝の時期が最盛期である。都の建康は後世「南朝四百八十寺」と詠まれるように、北朝の洛陽同様の仏寺が建ち並ぶ都市であった。 このような北魏及び南朝梁の南北両朝における仏教の栄華は、6世紀、北魏においては六鎮の乱に始まる東魏・西魏分裂、南朝梁では侯景の乱によるあっけない南朝の衰退によって、一転して混乱の極地に陥ることとなる。そして、それを決定づけたのが、北周の武帝の仏教・道教二教の廃毀と、通道観の設置である(三武一宗の廃仏の第2回目)。当時、慧思の「立誓願文」に見られるような、中国で流行し出していた末法思想と相まって、また、学問的な講教中心の当時の仏教に反省を加える契機を与えたものとして、中国仏教の大きな分岐点の一つとなったのが、この2度目の廃仏事件である。 北周の覇業を継承した隋の文帝は、南朝陳を併合することで、西晋以来の中国の統一を成し遂げる。が、宗教政策においては、武帝のそれを継承せず、仏教復興政策というよりも、儒教に変わって仏教を中心に据えるほどの仏教中心の宗教政策、いわゆる仏教治国策を展開することとなる。漢代以来の長安城の地を捨てて新たに造成され、唐の長安の礎となる大興は、国寺としての大興善寺をその中心に据え、洛陽・建康に代わる仏教の中心地となる。また、文帝はその晩年、崇仏の度を増し、中国全土の要地に舎利塔を建立し、各地方の信仰の中心とした。その年号をとって、仁寿舎利塔と呼ばれる。これが、日本の国分寺の起源となるものである。
南北朝時代
隋