本項では、中国の仏教美術(ちゅうごく の ぶっきょうびじゅつ)について解説する。
1世紀、仏教は中国へと至り、この国の美術、とりわけ塑像の分野に新風を吹きこんだ。遥か遠方で成立した仏教を受け入れていくなかで、仏教美術は中国文化の審美眼と道徳を反映しながら変化していった[1]。
中国における仏教の受容において、漢訳仏典と教相判釈が大きな役割を果たした。漢訳によって、本来サンスクリットやパーリ語で記された経典が漢字文化圏へ普及した一方、その過程で偽経と呼ばれる、原典にはない経典[注釈 1] も成立した。また、教相判釈によって、伝来した多種多様な経典の解釈・体系化が行われた。結果、中国伝来以降の仏教では中国化と大乗仏教の主流化が進み、のちの仏教美術もそれらを反映したものになった。また、征服王朝である14世紀の元と17世紀以降の清の時代には特に、チベット仏教とその美術とも相互に影響を与え合うこととなった[2]。 中国における最初期の仏像[注釈 2]や仏教彫刻[6][7] は後漢まで遡ることができる。また、三国時代、魏の曹植は梵唄を学んだようである。しかしながら、皇族や豪族層への本格的な普及は西晋に至るまで限定的であり、ゆえにこの時代に確認できる仏教美術は少ない。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}弥勒仏立像 北魏 太平真君(443年)4年銘 像高 53.5センチメートル (21.1 in) 東京国立博物館蔵 太武帝による排仏
歴史
後漢・三国時代・晋
魏晋南北朝時代「五胡十六国時代#宗教」も参照
五胡十六国時代には、西域と中原を結ぶ交易路として栄えていた河西(現在の甘粛省)で、敦煌の莫高窟をはじめとする石窟寺院が建設され始める。この時代の仏像の様式と造形には、交脚したポーズや右肩を露出する「偏袒右肩」と呼ばれるスタイルなど、インド的な要素が強く遺されている[10]。5世紀に入ると、仏像は明確ではっきりとした輪郭線で表現されるようになる。造形も、こと如来像においては左右対称、厚手の衣装、より柔和な表情など中国風の表現が施されるようになっていく。
北魏による華北統一によって五胡十六国時代は終止符を打たれ、南北朝時代と呼ばれる時代に移っていく。これ以降、異民族系の北朝と漢民族の南朝が、隋によって統一がなされるまでの160年近くに渡って対峙を続けた。これらの政治的・文化的対立を背景に、仏教美術もそれぞれの地域で異なった展開をしていった。雲崗石窟第20窟の如来坐像(曇曜五窟のうちの一つ) 北魏 5世紀後半 涼州の僧侶曇曜が造営。この石窟に建てられた仏像は、北魏の歴代皇帝をモデルにしたと考えられている(「皇帝即如来」)。
北魏は建国当初から仏教保護政策を行っていた。晋の滅亡後、長く続いていた戦乱と経済的・社会的混乱は、五胡と呼ばれた非漢族系の異民族による華北への流入によって既に決定的なものとなっていた。このような状況において、それまで支配的であった儒教に変わって急速に拡がったのが仏教であった。仏教への改宗者は五胡の支配層にも多く、また彼らも仏教を民衆教化のため、政治的・文化的な動機で利用した。以降、仏教が国教化した北朝では、仏教教団と支配層の結びつきが強まっていく。それらの状況を色濃く反映したものとして、雲崗石窟寺院の石仏が挙げられる[注釈 3]。また、同時期の生活様式を映す仏像の様式として、4世紀に多く作られた小型で金属製の仏像である、小金銅仏がある。移動の多い騎馬民族や、戦乱と隣り合わせであった漢族にとっても持ち運びやすいことから重用された。