中台関係
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中華人民共和国と中華民国の関係



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中台関係(ちゅうたいかんけい)とは、中華人民共和国中国大陸)と中華民国台湾)との関係のこと。中台の当局者同士は「台湾海峡両岸関係」(たいわんかいきょうりょうがんかんけい)略して「両岸関係」(りょうがんかんけい)と呼ぶことが多いという[1]
鄭氏政権から日清戦争終結まで(1662年?1895年)「鄭氏政権 (台湾)」および「清朝統治時代の台湾」も参照

台湾には古来、マレーポリネシア系の先住民(台湾原住民)が居住していたが、12世紀ごろから中国大陸から漢民族が到来し始め、13世紀末にの世祖クビライが台湾南西の島、澎湖島に巡検司を設置した。

代後半の16世紀末から、現在の福建省からの移民が本格化した。1661年鄭成功(実母は日本人)が当時台湾を植民地支配していたオランダを駆逐して、台湾史上初の漢民族政権を樹立した(鄭氏政権)。しかし、鄭氏政権は1683年、わずか20年余りで国に制圧された。鄭成功は、「反清復明」(満州民族の王朝である清を打倒し、漢民族の王朝である明を復興する)の目標を果たすことなく死去したが、台湾開発の基礎を築いた実績は今日の台湾でも高く評価されており、台湾人の不屈精神の支柱・象徴「開発始祖」「民族の英雄」として社会的に極めて高い地位を占めている[2]

鄭氏政権が倒れた翌年の1684年康熙帝が台湾領有の詔勅を下し、台湾を清国の版図としたが、台湾を「化外の地」として扱って実質的に統治せず、漢民族の移住を厳しく制限した。しかし、その後も福建人や広東人、客家人が台湾に多数移住した。

台湾出兵の発端となった台湾原住民による日本人船員殺害事件(1871年)では、清は日本政府の賠償要求に対し、管轄外として拒否した。
日清戦争終結から第二次世界大戦終結まで(1895?1945年).mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節の加筆が望まれています。
日本統治時代の台湾」および「中華民国の歴史」も参照

1895年日清戦争後に締結された下関条約により、台湾は清から大日本帝国に割譲された。この頃の台湾の総人口は約300万人、うち漢民族は約255万人、原住民は約45万人だったという。この間の日本の政策により、中国大陸と台湾の往来は激減した。
国民政府の領有と台北遷都(1945?1949年)「国共内戦」および「中華民国政府の台湾への移転」も参照

ポツダム宣言が調印された1945年9月2日連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) は指令第1号において台湾の日本軍に対して中国軍(国民革命軍)の?介石軍事委員長への投降を命じた。?介石は、すでにその1日前(9月1日)、「台湾省行政長官公署」と「台湾警備総司令部」を設置し、陳儀陸軍大将を初代台湾行政長官兼台湾警備総司令官に任命していた。同年10月17日国民政府の中国軍と官吏あわせて1万人以上が米軍の全面的支援を受けて基隆港から上陸、台湾の領有を開始した。10月25日には、上海から到着したばかりの陳儀初代行政長官と安藤利吉台湾総督兼台湾軍司令官との間で降伏文書の調印が行われた(台湾光復)。この日は現在も「光復節」として台湾(中華民国)の休暇を伴わない記念日となっている。

台湾光復後まもなく、中国大陸では?介石率いる中国国民党と毛沢東率いる中国共産党との国共内戦が本格化し、台湾では著しい物資不足と激しいインフレーションが襲った。1946年3月には早くも、長官公署の無能・腐敗を糾弾する「人民自由防衛委員会」が発足している。そして、1947年2月28日の台湾住民と官憲の衝突をきっかけに台北市戒厳令が敷かれ、国民党軍や官憲による住民の弾圧・粛清が行われた(二・二八事件)。この事件により知識人を中心にわずか2週間余りの間に少なくとも約2万8千人が殺害され、今日に至る「本省人」と「外省人」の深い溝を作った。

米国の抗議を受け、?介石は陳儀を免職とし、台湾行政長官公署を廃止して台湾省政府を設置し、魏道明を初代省政府主席に任命した。1948年末には、?介石の腹心である陳誠を第2代省政府主席兼台湾警備総司令官に、長男である?経国を中国国民党台湾省委員会主任委員に任命した。1949年5月20日、台湾全土に戒厳令が布告された(この戒厳令は、?経国政権末期の1987年7月にようやく解除された)。


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