中原謙助
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中原 謙助(なかはら けんすけ、1876年明治9年)6月19日 - 1928年昭和3年)5月16日)は、日本陸軍軍医政治家。旧姓は小林、野村、柏村。元山口町議会議員。元湯田医院(中原医院)長。従五位勲四等父母と、中也3歳

詩人中原中也の父。
経歴

山口県厚狭郡厚東村(現宇部市)の農家小林八九郎、フデの次男として生まれた。小学生の頃、父親の八九郎が離婚、浜田スミという女性と再婚。謙助は八九郎の姉のミキが嫁いでいた野村家の養子になる。棚井小学校(現・宇部市立厚東小学校)の教師から苗字が変わったことを告げられた謙助はその場で泣き出したという[1]

小学校卒業と同時に、母の実家・藤井家の従兄藤井幸八のすすめによって上京を決意する。藤井幸八は名医として聞え、藤井眼科医院は遠近からの患者で大いに栄え、入院患者を収容するのに付近の農家を借りるほどだった。

20歳の時、済生学舎(現在の日本医科大学)で学びと共に実地試験を受け、同時に施行された医術開業試験に合格、医師免許をとる。その年20歳の合格者は謙助1人で全国最年少者だったという[2]。陸軍軍医学校を経て軍医となる。

明治33年(1900年)12月、中原フクと結婚する。

明治34年(1901年)7月厚狭郡万倉村きっての名門士族の柏村家に籍を移し、柏村基著同妻ユキの養子、嗣子敏一の養弟となる。柏村基著は明治維新前、国司親相家老だった。旧家老柏村家に入籍することによって平民の謙助は“士族柏村謙助”となり、士族としても中原家より遥かに格式の高い身分を得た。フクと正式に婚姻したのは明治38年(1905年)であった[3]

明治40年(1907年)一等軍医として旅順配属中、長男・中也が生まれる。母子を呼び寄せるが、山口、広島と異動が続く。

大正4年(1915年)前年から朝鮮の竜山に栄転していたが、上司に申し出て家族のいる山口に転任する。10月、中原家と養子縁組して中原家の戸主となる[4]。入籍の時は「私の生涯は姓の遍歴のそれであった。中原が最後の姓であるように祈る」と語ったという[5]

大正6年(1917年)4月軍隊をやめて湯田医院の業につく。謙助院長の湯田医院は大いに栄えた。書生3人、看護婦7人、車夫2人をおき、外科室、同準備室、処置室、レントゲン室、デアテルミ室、研究室、入院病棟3棟12室を増設、県下で最初のラヂウム療法を始めた。家族10人、従業員13人、入院患者と付添、見舞客が常時30人、それに出入商人、来訪客などがあり、早朝から夜おそくまで、60人くらいのものが個人経営の医院を騒然とさせていた。さらに謙助は山口町議会議員に選ばれた。[6]

昭和3年(1928年)3月15日、往診先で倒れた。5月16日死去。放光院謙空義烈居士。葬儀は盛大だった。
軍隊歴

明治31年(
1898年

7月 - 陸軍軍医学校卒業 見習医官 歩兵第22連隊配属 軍医勤務修得


明治32年(1899年

2月 - 叙正八位


明治33年(1900年

3月 - 福知山連隊区徴兵検査副医官


明治34年(1901年

1月 - 軍医学校へ分遺

5月 - 帰隊

12月 - 免本職補近衛歩兵第1連隊


明治35年(1902年

10月 - 免本職近衛歩兵第2連隊

11月 - 二等軍医(中尉


明治36年(1903年

2月 - 叙従七位

11月 - 免本職台南衛戍病院付


明治37年(1904年

12月 - 一等軍医(大尉


明治38年(1905年

1月 - 叙正七位

2月 - 台湾守備歩兵第十一大隊付

3月 - 広島予備病院付 臨時交替として安平港出帆 宇品港上陸 広島予備病院第七分隊付

4月 - 第十四師団第二野戦病院付

7月 - 動員下令 宇品港出帆 大連港上陸

8月 - 大房身舎営病院勤務

10月 - 第九師団第一衛生予備員


明治39年(1906年

1月 - 双樹兵站病院勤務

2月 - 宇品港凱旋上陸 同月15日広島発 同月16日金沢着

3月 - 歩兵第35連隊

4月 - 勲五等双光旭日章及金参百円を賜う

8月 - 歩兵第53連隊


明治40年(1907年

3月 - 旅順

9月 - 旅順病院付


明治41年(1908年

8月 - 歩兵第42連隊


明治42年(1909年

2月 - 広島衛戍病院付


明治43年(1910年

2月 - 叙従六位


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