中原誠
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 中原誠 十六世名人
名前中原誠
生年月日 (1947-09-02)
1947年9月2日(76歳)
プロ入り年月日1965年10月1日(18歳)
引退年月日2009年3月31日(61歳)
棋士番号92
出身地宮城県塩釜市[1]
所属日本将棋連盟(関東)
師匠高柳敏夫名誉九段
弟子小倉久史佐藤秀司高野秀行熊坂学甲斐智美
永世称号十六世名人永世十段永世王位名誉王座永世棋聖
段位九段
棋士DB中原誠
戦績
タイトル獲得合計64期
一般棋戦優勝回数28回
通算成績1308勝782敗(0.6258)
竜王戦最高クラス1組(18期)
順位戦最高クラスA級(29期[注釈 1]
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中原 誠(なかはら まこと、1947年9月2日 - )は、将棋棋士。2009年3月、引退。十六世名人、および永世十段永世王位名誉王座永世棋聖という5つの永世称号を保持し、かつ、いずれも引退前から名乗る[注釈 2]。通算1308勝は羽生善治大山康晴谷川浩司加藤一二三に次ぎ歴代5位。通算タイトル獲得数64期は羽生、大山に次ぎ歴代3位

棋士番号は92。日本将棋連盟会長(2003年-2004年)。第1回川崎市文化賞受賞(1972年)。塩竈市民栄誉賞(1985年)。鳥取県気高郡鹿野町名誉町民(2004年)。気高郡勝谷村(その後合併して鹿野町、現鳥取市鹿野町宮方)生まれだが、生後1か月で転居した宮城県塩竈市を出身地とする。
戦歴

24歳で大山康晴から名人位を奪取し、その後も防衛を続け9連覇。「棋界の(若き)太陽」[注釈 3]と呼ばれた。以後、大山康晴十五世名人の後継者として将棋界に一時代を築き、さらには米長邦雄加藤一二三谷川浩司らと数々の名勝負を繰り広げた。
デビュー・初タイトル

初めは塩釜の佐貝正次郎に6枚落ちから丁寧に指導を受け[2]、仙台の石川孟司の指導を受ける[3]。石川の紹介で1956年に五十嵐豊一原田泰夫と対戦し、その他何人かの真剣師と対戦し腕を磨く。1957年9月末に石川の紹介で10歳で上京し、高柳敏夫門下に入門[注釈 4]、兄弟子に芹沢博文がいた。翌1958年4月に奨励会に6級で入会し、13歳、中学2年で初段になる[注釈 5]。三段時代に山田道美主催の山田研究会[注釈 6]に加入、芹沢の芹沢研究会にも加入する。

奨励会時代から将来を嘱望されていたが、プロ入り直前の関門である「三段から四段への壁(奨励会A組、現三段リーグ)」をなかなか乗り越えられずに[注釈 7]6期3年間も足踏みし、人間的にも苦悩したと語っている[注釈 8]。しかし、1965年秋18歳で桐山清澄を東西決定戦で破り、四段になってプロ入り後は、王座戦で3戦目から11連勝し、その後順位戦において4年連続で昇級・昇段を重ねていき、最速でA級八段となった。

1967年度後期、第11期棋聖戦山田道美八段[注釈 9]にタイトル初挑戦し、フルセットの末に敗退する。加藤と並んでの最年少挑戦記録として扱われた[注釈 10]。しかし半年後、1968年度前期の第12期棋聖戦では、強豪[注釈 11]を連破して連続で山田に挑戦すると、3勝1敗で勝利し初のタイトル・棋聖位を獲得する。20歳でのタイトル獲得は、当時大山の持っていた27歳での九段獲得の最年少タイトル獲得の記録を更新する快挙であった。

その後、大山康晴、山田を相手に2期防衛して棋聖3連覇。だが、3度目の防衛戦で内藤国雄に敗れ棋聖を失い無冠となる。
大山康晴に代わり第一人者へ

1970年度、十段戦で大山を4-2のスコアで下し、大山の五冠独占の一角を崩す。さらに、直後の後期の第17期棋聖戦(中原3-大山0)でも大山をストレートで破り、初めて二冠となる。続く1971年度前期の第18期棋聖戦(中原3-大山1)で大山を相手に防衛に成功。これで棋聖位獲得通算5期となり、早くも永世称号の保持者となる(史上最年少記録)。この2つの年度は、タイトルホルダーが大山と中原の2名だけという、まさに二強時代であった。

1971年度、A級2年目の第26期順位戦でA級順位戦史上初めて全勝し名人挑戦権を得て[4]、1972年の第31期名人戦七番勝負(中原4-大山3)で大山と戦う。フルセットの戦いの末に勝利し、棋界の頂点である名人位に初めて就く。この年度は、初めて三冠王となるとともに、大山を無冠に転落させた。なお、この後、大山が名人位に復位することは二度となかった[注釈 12]
ライバル達との対決

1973年度からは、米長邦雄加藤一二三内藤國雄ら、大山康晴より若い、同じ世代の棋士達との戦いが主となる。特に、米長とはタイトル戦で数々の死闘を演じた。

1973年、第14期王位戦(中原4-内藤0)で内藤國雄から王位を奪い、初めて四冠王となる。しかし、直後の十段戦で捲土重来を期す大山に奪取される。それから1年間、三冠を防衛した中原は、翌年(1974年度)に十段を奪還して四冠に返り咲く。以降、中原と大山は、それぞれのタイトルを防衛し続け、1974年度から1977年度途中まで、

四冠王(名人十段王位王将) = 中原

棋聖 = 大山

棋王(1975年度に新設) = 他の誰か

という構図が続き、中原は防衛戦で同世代のライバル達と当たる。大内延介と戦った1975年の名人戦(中原4-大内3、持1)では、途中2勝3敗となり角番に追い込まれるも、第7局で大内必勝の局面での大内の悪手(107手目▲7一角)に助けられて持将棋に持ち込み、薄氷の逆転防衛をする。翌1976年の第35期名人戦(中原4-米長3)でも防衛に成功して名人5連覇。永世名人(十六世名人)の資格を得る。

1977年度後期の第31期棋聖戦(中原3-大山2)で大山からフルセットの末、棋聖を奪取し、大山に次いで史上2人目の五冠王となる。残るタイトルは棋王のみとなり、この年度、第3期棋王戦(中原0-加藤3)で加藤一二三に挑戦したが、ストレートで敗れ、全六冠制覇はならなかった。

その後は中原の相対的な不調と、米長・加藤の充実もあり、彼らとのタイトル戦での対戦は五分に近い成績となりタイトル数は漸減する。加藤一二三と対戦した、1982年度(第40期)名人戦では、持将棋・千日手を合わせて俗に「十番勝負」と呼ばれた名勝負となったが、3勝4敗で名人位を明け渡す。名人連覇は9期で終わった。
次世代との対決

1980年代半ばごろからは、谷川浩司55年組高橋道雄中村修南芳一塚田泰明らとのタイトル戦での勝負が主となり、保持するタイトル数が三冠ないしは無冠となっていく。

1985年度、第43期名人戦(中原4-谷川2)で、前々期に史上最年少名人となっていた谷川から名人位を奪取して復位。翌1986年の第44期名人戦では大山が挑戦者の名乗りを挙げたが、中原が防衛。二人がタイトル戦の舞台で顔を合わせたのは、これが最後となった。

1987年度、第35期王座戦(中原2-塚田3)で王座を塚田泰明に奪われ、名人のみの一冠となる。さらには、翌年度(1988年度)、第46期名人戦(中原2-谷川4)で谷川に名人を奪われ、無冠の「前名人」となる。しかし、同年度の第36期王座戦(中原3-塚田0)で塚田から王座を奪還し、後期/第53期棋聖戦(中原3-田中2)では弟弟子である田中寅彦から棋聖を奪い、二冠に復帰。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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