中原章任
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 凡例中原章任
時代鎌倉時代末期
生誕不明
死没元亨元年(1321年
官位検非違使道志、検非違使尉、大夫判官従四位下刑部省大判事、明法博士、明法侍読修理権大夫
主君西園寺実兼花園院
氏族明法道中原氏章直流
父母中原章継
兄弟章任、是円真恵
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中原 章任(なかはら の のりとう)は、鎌倉時代末期の貴族明法家法学者)。『金玉掌中抄』の著者。花園院の明法侍読。父は章継、弟は是円真恵従四位下大判事明法博士修理権大夫
略歴

中原氏10世紀の氏祖中原有象以来明経道(儒学)・明法道(法学)を家学とした家系であり、章任はそのうち明法道を家学とする系統の生まれで、章直流に属す[1]。祖父の章職は、刑部省大判事明法博士[2]。父の中原章継も、『地下家伝』九によれば、明法博士だったと伝えられる[3]。弟の是円(中原章賢)と真恵も『建武式目』を起草者した法学者として著名[4]

若年から検非違使道志に任官し、検非違使尉、大夫判官と出世を重ねる[2]

正和3年(1314年)頃、前太政大臣・前関東申次である西園寺実兼家司を務めた(『公衡公記』)[2]。この記録は、明法家が特定の公卿に侍すこともあった実例として興味深いものである[2]

律令の参考書である『金玉掌中抄』を著述[2]。約70の法律事項に律令格式本文と家学によって註解したもので、鎌倉時代公家法の思想を伺うことができ、また律の逸文を含むことから貴重[2]

元応2年(1320年)、花園院に律令を講じた(『花園天皇宸記』)[2]

元亨元年(1321年)に卒去[2]極位極官は、従四位下大判事・明法博士・明法侍読修理権大夫[2]
脚注

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^ 吉岡 1997.
^ a b c d e f g h i 利光 1997.
^ 三上 & 正宗 1937, p. 410.
^ 朝日日本歴史人物事典. “真恵” (日本語). コトバンク. 2020年7月9日閲覧。

参考文献

三上景文; 正宗敦夫編 「勢多家」 『地下家伝』 2巻 日本古典全集刊行会〈日本古典全集〉、1937年、410?418頁。doi:10.11501/1207803。NDLJP:1207803。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207803/34。 

吉岡真之 「中原氏」 『国史大辞典吉川弘文館、1997年。 

利光三津夫 「金玉掌中抄」 『国史大辞典』 吉川弘文館、1997年。 


更新日時:2021年10月30日(土)04:24
取得日時:2021/12/01 19:35


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