凡例中原師守
時代南北朝時代
生誕不明(正和元年(1312年)もしくはそれ以後)
死没不明(応安3年(1370年)もしくはそれ以前)
官位
建武政権およびそれ以前:大炊頭、権少外記
北朝:権少外記、雅楽頭、少外記、主計権助、記録所寄人(、院上北面?、明経道直講?、助教?、明経博士?、正五位上?)
主君後醍醐天皇→光明天皇→崇光天皇→後光厳天皇
氏族明経道中原氏師重流
中原 師守(なかはら の もろもり)は、南北朝時代、北朝に仕えた官人。南北朝時代の最重要史料の一つである日記『師守記』(重要文化財)の著者。 大外記中原師右
略歴
『外記補任』によれば、大炊頭を経て、建武政権では建武2年(1335年)権少外記となる[1]。南北朝の内乱では北朝に属し、建武4年(1337年)に雅楽頭を兼任、暦応元年(1338年)に少外記に転じ、雅楽頭を辞し、主計権助を兼任[1]。これ以降『外記補任』には記載されない[1]。のち、記録所寄人[1]。また、後世の系図である『系図纂要』所収『中原系図』では、院上北面、明経道の直講、助教、明経博士に登り正五位上となったと伝承されている[1]。
官人としては、局務である兄の師茂の補佐に努めた[1]。
没年も不明だが、『外記補任』応安3年(1370年)の嫡子の師豊について「故主税頭師守男」と注されているため、この時までには没していたと考えられる[1]。
その日記『師守記』は、北朝の朝儀・公事のみならず、南北朝時代の朝廷・武家の政治や軍事、また社会一般の出来事を広く記録しており、同時代における第一級史料の一つである[1]。平成16年(2004年)6月8日に重要文化財に指定された[4]。
師守の後裔は押小路家を称し[1][5]、子孫数代は大外記に任じられたが[5]、室町時代末期に絶えた[1]。なお、中原氏宗家も後に押小路家を名乗るが、それとは同名別家である[5]。
脚注[脚注の使い方]^ a b c d e f g h i j k l 飯倉 1997.