中原中也
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中原 中也
(なかはら ちゅうや)
1925年大正14年)に18歳で上京した際、ファンだったの詩人ランボーの帽子姿で、銀座の写真館で撮影[1]
誕生1907年4月29日
日本山口県吉敷郡下宇野令村(現・山口市湯田温泉
死没 (1937-10-22) 1937年10月22日(30歳没)
日本神奈川県鎌倉郡鎌倉町雪ノ下(現・鎌倉市雪ノ下)
墓地 日本山口市吉敷
職業詩人歌人翻訳家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴アテネ・フランセ(旧・東京外国語学校予科私立高等仏語部)修了
東京外国語学校専修科仏語部修了
活動期間1934年 - 1937年
ジャンル短歌翻訳
主題喪失感・哀惜・憂鬱
文学活動ダダイスム・四季派
代表作『山羊の歌』(1934年)
『在りし日の歌』(1938年)
配偶者上野孝子
子供文也(長男)
愛雅(次男)
親族中原周助(曽祖父)
小林八九郎(祖父)
中原助之(祖父)
中原政熊(養祖父)
中原謙助(父)
中原亜郎(弟)
中原恰三(弟)
中原思郎(弟)
中原呉郎(弟)
伊藤拾郎(弟)
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中原 中也(なかはら ちゅうや、1907年明治40年〉4月29日 - 1937年昭和12年〉10月22日)は、日本詩人歌人翻訳家旧姓は柏村(かしむら)。

代々開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして医者になることを期待されていた。小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれたが、8歳の時、弟が風邪により病死したことで文学に目覚めた[1]。中也は30歳の若さで死去したが、生涯で350篇以上の詩を残した。その一部は、結婚の翌年刊行した第1詩集『山羊の歌』および中也の死の翌年出版された第2詩集『在りし日の歌』に収録されている。訳詩では『ランボオ詩集』や、数は少ないがアンドレ・ジイドの作品などフランス人小説家の翻訳もしている。日本大学予科中央大学予科などを経て東京外国語学校(現在の東京外国語大学)専修科仏語部修了。
生涯.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "中原中也" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年9月)

生い立ち父母と、中也3歳
5歳の中也(右)と弟・亜郎(つぐろう)

1907年(明治40年)4月29日、山口県吉敷郡山口町大字下宇野令(しもうのりょう)村(現在の山口市湯田温泉)の中原医院で生まれた。両親の柏村謙助・フク夫妻は結婚後6年あまり子供に恵まれず、中原家当主の政熊にも実子がいなかったため、長男の誕生をおおいに喜び、三日間にわたって誕生祝いを行った。当時、父の謙助は軍医として旅順にいたが、手紙で「中也」と名づけるよう送ってきた。10月、生後6ヶ月で母・フクと祖母・スヱと関東州旅順に渡る。中也を手元で育てたいという謙助の希望によるものだった。翌年の夏、謙助は山口に任ぜられ、一家は山口の中原家に戻った。翌年には広島に異動。

1911年4月、広島女学校付属幼稚園に入学。謙助はよく中也を連れて釣りにでかけたが、自分たちと階層の違う近所の子供とは遊ばせなかったという。1912年9月、謙助は三等軍医正(少佐)に昇進、金沢に異動。翌年から中也は北陸女学校附属第一幼稚園(現・北陸学院幼稚園の第一幼稚園)に通う。

1914年、謙助は朝鮮の竜山に栄転するが、学齢に達していた中也はフクとともに中原家に戻り、地元の下宇野令小学校に入学。成績優秀で「神童」と呼ばれた。1915年、謙助は上司に申し出て山口に転任、中原家と養子縁組、中也の苗字も「柏村」から「中原」に変わった。この年、弟の亜郎(つぐろう)が脳膜炎で死去。中也は後年『詩的履歴書』に、詩作をはじめたのは「亡くなった弟を歌つたのが抑々(そもそも)の最初である」と記している。政熊が軽い中風に倒れたのをきっかけに、謙助は予備役編入を願い出て許可され、1917年に中原医院を継いだ。

1918年、中也は山口師範附属小学校(現・山口大学教育学部附属山口小学校)に転校。ここでも成績優秀で、戦闘的でありながらひょうきんなところがありクラスの人気者だったという。中也の両親は教育熱心で、フクが予習復習を受け持ち、謙助は納屋に閉じ込めたり煙草の火を踵に押し当てるなど厳しい懲罰を与えた。湯田温泉の風紀がよくないのを心配して外で遊ぶのを禁じ、溺れるのを恐れて水泳もさせなかった。小学校6年のころから短歌を作り始め、フクとともに『婦人画報』に投稿、1920年(大正9年)2月号で次選になり掲載された。また『防長新聞』(戦後に存在した同名紙とは別の新聞)にも短歌を投稿、入選している。

1920年4月、12番の成績で山口県立山口中学校(現・山口県立山口高等学校)に入学。しかし読書にふけり、成績は80番にまで下降、教師が家に注意したので、小遣いがもらえなくなり、立ち読みをしたり、図書館を利用するようになった。2学期の成績は50番まで持ち直したが、2年生ではどん底の120番まで落ちる。このころ、中也は両親に隠れて、防長新聞の短歌会「末黒野の会」に出席していた。この会で知り合った吉田緒佐夢、宇佐川紅萩と歌集「末黒野(すぐろの)」を1922年5月ごろ刊行。中也は「温泉集」と題した28首を収めた。飲酒や喫煙を覚えた「不良少年」となっており、成績はさらに下降した。

1923年、3年生の原級留め置き(落第)が決定。通知を受けた謙助は落胆し、数日間往診に出なかった。一方中也は級友を勉強部屋に集め万歳をして答案を破いた。祖母スヱが「この位のこと何です」と部屋を掃除したという。
京都での出会い

落第したことで中也が山口中学にいたくないという意思を示し、謙助も世間体が悪いということで転校させることになった。1923年4月、京都立命館中学校3年に編入、中也は一人で下宿生活を送ることになった。秋、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』を読んで衝撃を受け、ダダイスムに傾倒、詩作を始める。3歳年上の女優・長谷川泰子と知り合い、翌年から同棲する。泰子はマキノ・プロダクションの大部屋女優として月給をもらっていたが、解雇されてからは中也の居候となってしまう。帰省した中也が痩せているのを案じた中原家は仕送りの額を増やしている。


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