中勘助
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中勘助(1935年頃、50歳前後)
ペンネーム大内生(1912年)
那珂(1913年-1922年)
誕生1885年5月22日
日本東京府神田区東松下町7番地(現・東京都千代田区神田東松下町14付近)
死没 (1965-05-03) 1965年5月3日(79歳没)
日本・東京都千代田区飯田橋3丁目5番地
日本医科大学附属第一病院
墓地 日本青山霊園
職業小説家詩人随筆家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴東京帝国大学文科国文学科卒業
活動期間1912年 - 1965年
ジャンル小説随筆
代表作『銀の匙』(1913年 - 1915年)
『提婆達多』(1921年)
『犬』(1922年)
『沼のほとり』(1922年)
『鳥の物語』(1933年 - 1951年)
『琅玕』(1935年)
主な受賞歴朝日文化賞(1965年)
デビュー作「夢の日記」(1912年)
『銀の匙』(1913-1915年)
配偶者中和子
子供なし
親族中金一(兄)、中末子(嫂)
影響を受けたもの

夏目漱石

影響を与えたもの

橋本武

署名
ウィキポータル 文学
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中 勘助(なか かんすけ、1885年明治18年)5月22日 - 1965年昭和40年)5月3日)は、日本小説家詩人随筆家明治末期から大正初頭にかけて執筆した小説『銀の匙』が、学生時代の恩師である夏目漱石の推挙を受けて「東京朝日新聞」に連載されたことで文壇に認められる。漱石門下のひとりに位置づけられる一方で、文壇の潮流とは一線を画した文学活動を維持したことから「孤高の作家」と評される[1][2]
生涯
幼少期

1885年明治18年)5月22日東京府神田区東松下町7番地(現・東京都千代田区神田東松下町14付近[注釈 1])の旧今尾藩邸で、今尾藩士の父・勘弥(当時43歳)と母・鐘[4][5](志やう[6]、しょう[3]、当時37歳)の五男として生まれた。出生当時、中家には両親のほか、祖母のみき(当時74歳)、次兄の金一(当時14歳)、長姉のはつ(当時7歳)、次姉のちよ(当時5歳)、寄留していた母方の伯母[注釈 2](母の一番上の姉[4][6])がいた。兄姉のうち、長兄・三兄・四兄は夭逝していた。勘助が生まれた3年後の1888年(明治21年)には妹の栄、翌1889年(明治22年)には末妹のやすが生まれた。

勘弥は今尾藩士として藩主・竹腰正旧に仕え、今尾藩の権大属に任命されていた。しかし、廃藩置県のため1872年(明治5年)に藩主とともに東京に移住した。勘弥は家令として竹腰正旧・正己父子に仕え、輸入商会などを営んで主家の財政再建に努めた。

1889年7月、やすが生まれる少し前に母と勘助の健康のために東京府東京市小石川区小日向水道町92番地[4][6](現・東京都文京区小日向2丁目11番地付近)の新築の家に一家で転居した。幼い勘助は、鐘が産後の肥立ちが悪く病弱だったため、代わりに伯母によって育てられた。生まれつき体が弱く、神経過敏で頭痛に悩まされる子供だった勘助は、外で遊ぶことはなく、幼少期のほとんどを伯母以外の人と接することなく育った。
学生時代

東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)を経て、1902年(明治35年)9月、第一高等学校に進学した。同級には、江木定男(江木鰐水の孫)、山田又吉、安倍能成小宮豊隆野上豊一郎尾崎放哉藤村操らがいた[6]。翌1903年4月には、イギリス留学から帰国した夏目漱石が講師として第一高等学校に着任し、漱石の講義を受けた。同年5月には藤村操が華厳滝から投身自殺して社会問題となった。この頃、兄・金一は子爵野村靖の娘・野村末子(当時19歳)と結婚した[4]。結婚後まもなくして金一は単身でドイツに留学した。

1904年(明治37年)には留年した岩波茂雄荻原井泉水らが同級となる。安倍や岩波などとは卒業後も交流が続いた[7]

1905年(明治38年)、東京帝国大学英文科に進学。第一高等学校と兼任で東京帝国大学でも講師として勤めていた漱石から引き続き講義を受けた。翌1906年(明治39年)10月15日、父・勘弥が死去した。1907年(明治40年)には国文科に転科している。

卒業を半年後に控えた1909年(明治42年)1月、野村靖が死去した。同月末には野村の初七日のため福岡から上京してきていた金一が、突然脳溢血を起こして倒れ、失語症などを患う重症を負う。結果として、金一は九州帝国大学での教授職を辞任せざるを得ず、小石川の自邸で末子や家族に介護されることになった。家長たる金一が倒れたことにより、事実上の次兄である勘助には金一の代わりに一家の大黒柱として家族を支えることが求められるようになった。しかし、勘助は同年7月に東京帝国大学を卒業するも、家族のいる実家に戻らず、家から逃げるように各地を転遷するようになる。
放浪生活のはじまりと『銀の匙』

大学卒業後、1910年(明治43年)に勘助は一年志願兵として近衛歩兵第四聯隊に入隊するが、翌1911年(明治44年)4月に衛戍病院に入院することになり、同年6月頃には除隊となった。同年9月、除隊となった勘助は野尻湖弁天島に向かい、そこに籠もるようになる。

1912年(大正元年)夏から秋にかけて、野尻湖畔で「銀の匙」を執筆する。同年7月には、小宮豊隆の勧めで「夢の日記」を雑誌『新小説』に大内生名義で発表し、作家としての一歩を踏み出した。その後、「銀の匙」の前篇部分を書き上げた勘助は、学生時代の恩師である漱石にその原稿を送付した。「銀の匙」は漱石から高く評価され[8]、漱石の推薦もあり1913年(大正2年)4月から同年6月にかけて「東京朝日新聞」上に那珂名義で連載される。

1914年(大正3年)6月末には、比叡山横川・慧心院で「つむじまがり[注釈 3]」を執筆し、同じく漱石の推薦で翌1915年(大正4年)4月から同年6月にかけて「東京朝日新聞」上で連載された。
放浪と断筆の時代

勘助は『銀の匙』によって一躍注目を集める作家となったが、その後6年近くほとんど作品を発表せず[注釈 4]、作家として沈黙を保った。そして、私生活の上では病兄や老母のいる小石川の実家には戻らず、各地を転遷し続ける隠遁生活を送った。

1920年(大正9年)2月、千葉県我孫子町我孫子(現・千葉県我孫子市)の高嶌貰治郎方に仮寓。


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