中内?
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なかうち いさお
中内 ?
生誕 (1922-08-02)
1922年8月2日
日本 大阪府西成郡伝法町(現 大阪市此花区伝法)
死没 (2005-09-19) 2005年9月19日(83歳没)
日本 兵庫県神戸市中央区神戸市立中央市民病院[1]
国籍 日本
出身校兵庫県立神戸高等商業学校(現兵庫県立大学
職業実業家
配偶者妹尾萬亀子
子供長男 中内潤
次男 中内正
長女 中内綾
受賞勲一等瑞宝章
食品産業功労賞
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中内 ?(なかうち いさお、1922年大正11年〉8月2日 - 2005年平成17年〉9月19日)は、日本実業家ダイエー創業者。

戦後の日本におけるスーパーマーケット (GMS) の黎明期から立ち上げに関わり、近年の消費者主体型の流通システムの構築を確立させ、日本の流通革命の旗手として大きく貢献した。

ダイエー会長・社長・グループCEOを歴任したほか、日本チェーンストア協会会長(初代、10代、14代)・名誉会長(初代)、日本経済団体連合会副会長を務めたほか、自身が設立した学校法人中内学園(流通科学大学)学園長・理事長、財団法人中内育英会の理事長も務め、教育者としての一面もあった。

名前の正式な用字は「功」ではなく「?」(「工+刀」、?:U+34DB)。
生涯
生い立ち

大阪府西成郡伝法町(現 大阪市此花区伝法)に父・秀雄、母・リエの長男として生まれる。父は大阪薬学専門学校(現・大阪大学薬学部)を卒業後、鈴木商店に入社し、退社後大阪で小さな薬屋をはじめた。母は神社の宮司の娘。祖父・栄は高知県矢井賀村(現・中土佐町)の士族の家[注 1]に生まれ、大阪医学校(現・大阪大学医学部)卒業後、神戸で眼科医を務めた。ダイエーの(エイ)とは、祖父の名前の栄からとられたものである。

中内は神戸三中(現・兵庫県立長田高等学校)を経て、1941年兵庫県立神戸高等商業学校(新制神戸商科大学の前身。現・兵庫県立大学)を卒業。戦時中のため繰り上げ卒業であった。ゲーテファウスト』のファウスト博士の嘆きを一部改変し、「神戸高商で努力して学んだ様々な哲学も、芸術も経済学も文学も、まったく役に立たなかった」という意味のドイツ語の文句を卒業アルバムに記す[2]。勉強は苦手で、推薦状を得ながらも試験の出来が悪く、神戸商業大学(現・神戸大学)などの大学受験に失敗。
戦争体験と奇跡の生還

受験に失敗した中内は、1942年、日本綿花(ニチメン→双日)に就職するも、翌1943年1月に応召。広島にて訓練の後、幹部生として扱われる仲間を尻目に、満州国ソビエト連邦の国境にある綏南に駐屯する。

中内が一兵卒として召集された理由は、神戸高商時代の配属将校に嫌われ(自身は「下駄をはいて殴打された」と述べている[3])、「兵適」という最低の評価しか下されなかったからとされている。身体検査で「心臓が右にあるという『内臓逆位』であることが判明したため」とも述べている[4]

1944年7月、フィリピンの混成五八旅団(盟兵団)の所属となり、ルソン島リンガエン湾の守備に就いた。七年式三十糎榴弾砲を運用するも、1945年1月7日に榴弾砲が破壊される。部隊は1月23日未明に玉砕命令が下された直後、一四方面司令官・山下奉文によるゲリラ戦の命令が下されたことで辛うじて生き延びた。

フィリピン戦線では虫を食べて生き延びる絶望的な食料状況の中[5]、ゲリラ戦で米軍基地を襲撃した時、米軍が石油発動機アイスクリームを作っていたことに衝撃を受けた[6]。敵から手榴弾の攻撃を受け、瀕死の重傷を負い死を覚悟したとき、神戸の実家で家族揃ってすき焼きを食べている光景が頭に浮かび、「もう一回腹いっぱいすき焼きを食べたい」と思ったという。第二次世界大戦での戦争体験は、人生観やダイエーの企業理念にも影響を与えた[5]

「人の幸せとは、まず、物質的な豊かさを満たすことです」との言葉は、この時に痛感した日本軍と米軍との物量の差と飢餓体験から出ている。また、中内は毛沢東矛盾論の影響も受けていた[7]

後年、中央公論社から対談の謝礼を聞かれたとき、「キミとこ、大岡昇平さんの全集出してんねやな。もしよかったら、その全集くれへんやろか」と頼んでいる。大岡は?と同時期にフィリピンで従軍した体験を持ち、『野火』『レイテ戦記』などの優れた戦記文学を残している[8]

1945年11月にフィリピンから復員。神戸市兵庫区にあった実家のサカエ薬局が1948年、元町高架通に新たに開店した「友愛薬局」で、業者を相手に闇商売を行った。旧制神戸経済大学(現・神戸大学)に戦後設置された第二学部(夜間)に進学するも、学費未納のため除籍[9]。6年後の1951年8月には、次弟の設立した「サカエ薬品株式会社」が大阪市平野町に開店した医薬品の現金問屋「サカエ薬局」で勤務[注 2]
ダイエー設立・昇龍の頃

サカエ薬品を離れ、1957年4月10日に神戸市長田区を本店とする「大栄薬品工業株式会社」を末弟と設立し、製薬事業に参入したが、すぐに撤退。同年7月、九州のスーパー「丸和フードセンター」社長・吉田日出男の要請を受けて、小倉に向かい開店の援助をしたことから、吉田の提唱する「主婦の店」の名称を加盟費抜きで貰う。[10]9月23日、大阪市旭区京阪本線千林駅前(千林商店街内)に、医薬品や食品を安価で薄利多売する小売店「主婦の店ダイエー薬局」(ダイエー1号店。のちに千林駅前店に改称し1974年まで営業)を開店した。当初は現代のドラッグストアに相当する薬局で、後に食料品へと進出した。

本人が著書やインタビューで明らかにしたところによると、当初は特殊浴場パチンコ店をやろうとも考えたが、死んだ戦友に顔が立たないと思い、最も利益率の低いスーパーを選んだと述べている。

1958年には、神戸三宮にチェーン化第1号店(店舗としては第2号店)となる三宮店を開店。既成概念を次々と打ち破り、流通業界に革命をおこした。特に価格破壊は、定価を維持しようとするメーカー勢力の圧力に屈せず、日本国民の大多数より喝采を浴びた。1956年経済白書で「もはや戦後ではない」とされたが、戦時中の国家統制がさまざまな規制として残っており、中内は「戦後はまだ終わっていない」とした。[11]

1962年、大手商社日商(後の日商岩井、現・双日)の協力の下、渡米。現地の流通業を研究する。


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