中京競馬場
メインスタンド「ペガサス」
施設情報
所在地愛知県豊明市間米町敷田1225
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度4分0.25秒 東経136度59分22秒 / 北緯35.0667361度 東経136.98944度 / 35.0667361; 136.98944
中京競馬場(ちゅうきょうけいばじょう 英: Chukyo Racecourse)は、愛知県豊明市[注 1]にある競馬場。施行者は日本中央競馬会(JRA)および愛知県競馬組合(ただし現在休止中)、管理者は名古屋競馬株式会社(後述)。 2013年以降、基本的に中央競馬では毎年1・3・7・12月の4開催・26日間に渡ってレースを開催。非開催時は競馬場内場外発売所「パークウインズ中京競馬場」として発売・払戻業務を行っている。かつては地方競馬(愛知県競馬組合主催)も開催していたが、2002年以降は競馬開催を休止しており、場外発売所としてのみ使用している(「#地方競馬の開催」で後述)。 夏開催では西の主開催の中心となっており、第3場(主要4場を除く競馬場)で唯一高松宮記念、チャンピオンズカップの2つのGI競走が開催されている[1]。 馬場自体は原則年中無休で営業しており、コース内部は遊園地として平日も開放している。 名古屋地区に競馬場を開設する動きは明治時代からあり、第6代名古屋市長の加藤重三郎が競馬倶楽部の創設を考案したが実現には至らなかった[2][3]。この頃は全国的に競馬倶楽部が乱立するようになったため1908年に競馬倶楽部の数を11に整理し、1923年の競馬法施行で競馬場の数を11にすることが決定した。これにより当時公認競馬場がなかった名古屋地区には事実上競馬場を開設することが不可能となった[4][3]。そこで既存の競馬倶楽部を名古屋地区に移転することを画策し、経営難に陥った新潟競馬倶楽部や内紛が起こっていた中山競馬倶楽部を移転する計画が持ち上がったが実現には至らなかった[4][5]。 第2次世界大戦後、名古屋地区に競馬場を誘致する動きが起こるようになる。1949年5月9日の第5回国会で中京に競馬場を設置することが盛り込まれた競馬法の一部改正案が上程された[6][7]。中京という名称を用いたのは中部日本の中心の意味を込めていた[6][7]。理由として、勝馬投票券の売上げを増やすことで政府収入の増加をはかるとともに、その当時11あった競馬場のうち、戦時中の設備荒廃等の理由で競馬を開催できる競馬場が札幌・函館・中山・東京・京都・小倉の6カ所にとどまっており、中京に競馬場を設置することで負担を軽減し、競馬の健全なる発達に寄与するためであった[6][7]。この国会では継続審議となったが、衆議院農林委員会の委員が中京競馬場の建設候補地を視察した。農林委員会が定めた候補地は第1に一宮市、第2に春日井市、第3に大府町(現・大府市)、守山町(現・名古屋市守山区)、鳴海町(現・名古屋市緑区)としたが、各候補地の誘致争いは激しかった[8][9]。競馬法一部改正案の国会審議は第7回国会・第8回国会
概要
歴史
中京競馬場が開設するまで
こうして、中京競馬場の設置は決まったものの、名古屋の財界は中京競馬場の誘致に当初は消極的であった。そこで、トヨタ自動車工業の初代社長を務めた豊田利三郎が中心となって財界から競馬場誘致の機運を高めようとした[13][14]。しかし、利三郎は競馬を全然知らなかったので、競馬に精通していた愛知トヨタ自動車社長の山口昇に協力を依頼した[15][14]。利三郎は競馬関係者や名古屋財界の首脳を招いた懇談会を開き、この場で財界からの協力を得ることができた[15][14]。そして、懸案だった競馬場の予定地も農林省の現地調査の結果、1951年1月30日に当時の農林大臣・広川弘禅が鳴海地区に競馬場を設置することを決めた[15][14][16]。利三郎は1951年2月に名古屋競馬株式会社創立発起人会を作り、発起人総代になる予定だったが道半ばで死去し、元愛知県知事の青柳秀夫が発起人総代となった[17][18]。1952年8月5日に名古屋競馬株式会社が設立され、青柳が初代社長となった[19][18]。
1952年10月13日、中京競馬場の建設工事着工。当初は1953年5月の工事完了を目指したが、秋の長雨や電力事情の悪化があって遅れ気味であった[20]。1953年7月26日に竣工。竣工当初の中京競馬場は1周1600mの砂馬場で、収容人員が6000人でシェル型の大屋根が特徴のスタンドがあった[21]。8月1日には農林省競馬部と名古屋競馬株式会社の間に中京競馬場賃貸借契約が結ばれた[22][23]。
開設後
1953年8月22日 - 第1回中京国営競馬が開幕。翌日には中京開設記念競走(翌年から中京記念として施行)が行われ、この年の春の天皇賞を制したレダが優勝した[24][25]。この年は8月22日から9月6日までの第1回開催、9月12日から27日までの第2回開催がそれぞれ6日間ずつ行われた[24][25]。
1954年9月16日 - 日本中央競馬会発足。日本中央競馬会中京競馬場となる[26]。
1962年1月15日 - スタンドの増改築工事竣工[27]。
1964年8月 - 第3回開催を同年に開催された東京オリンピックの馬術競技に使用する施設建設の基金に充てる「オリンピック基金競馬」として施行[28]。
1969年11月26日 - 大規模改築工事着工。芝馬場の新設やスタンドの改築等、創設以来の諸施設のほとんどを造り替える大工事に(1970年10月26日竣工)[29][30]。
1974年6月23日 - 第4回高松宮杯にハイセイコーが出走し優勝。当日は68,469人が入場し、当時の中京競馬場の入場者数の最多記録に[31]。
1974年10月1日 - ダートコースを新設[31]。
1983年1月30日 - 第1回4日目第2競走において子供がコース内に飛び出してレース中の馬と接触する事故が起こる[32]。
1987年 - 1月から2月にかけての開催が3月の小倉競馬と日程を入れ替え。これに伴いこれまで中京競馬場で行われたきさらぎ賞が京都競馬場の開催に変更[33]。
1987年11月28日 - ターフビジョンが設置され、運用開始[33]。
1990年 - 阪神競馬場改築工事のため、4回阪神競馬(9月)の開催を3回中京競馬として開催[34]。年間4開催32日開催。
1991年 - 阪神競馬場改築工事のため、1回阪神競馬(3月)の開催を1回中京競馬、4回阪神競馬(9月)の開催を3回中京競馬として開催。この関係で平年の1回中京競馬が2回小倉競馬として開催されたため、中日新聞杯・中京記念が小倉競馬場での開催となる[34][35]。年間4開催32日開催。
1993年1月12日 - スタンド増改築及び馬場改修工事が着工。これに伴い1回中京競馬(3月)の開催を2回小倉競馬、2回中京競馬(6-7月)を4回京都競馬として開催[36][37]。この年の中京競馬は例年の第3回開催にあたる12月に1回8日のみ開催された。
1993年11月10日 - 馬場改修工事が竣工。1?2コーナーと3?4コーナーのカーブをスパイラルカーブ化。また、地下馬道を新設した[38]。
1994年 - 京都競馬場改築工事のため、1回阪神競馬(3月)の開催を1回中京競馬、4回阪神競馬(9月)の開催を3回中京競馬として開催。1991年と同様に平年の1回中京競馬が2回小倉競馬として開催されたため、中日新聞杯・中京記念が小倉競馬場での開催となる[36][39]。