中井正一
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この項目では、美学者について説明しています。元北國銀行頭取については「中井正一 (実業家)」をご覧ください。

中井 正一人物情報
生誕 (1900-02-14) 1900年2月14日
日本広島県
死没1952年5月18日(1952-05-18)(52歳)
出身校京都帝国大学
子供中井浩(図書館学情報科学研究者)
学問
研究分野美学
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中井 正一(なかい まさかず、1900年明治33年)2月14日 - 1952年昭和27年)5月18日[1])は、日本美学者・評論家社会運動家。国立国会図書館副館長をつとめた。相愛女子専門学校(現:相愛女子短期大学相愛大学)講師。
経歴
幼少期

1900年2月14日 大阪市の緒方病院で帝王切開にて誕生。日本最初期の帝王切開で[2][3]、執刀医の緒方正清緒方洪庵の孫娘の婿。正清から一字もらって正一と命名された[3]。本籍は広島県賀茂郡竹原町(現:竹原市)で、尾道市に育った。1918年 広島高師附属中学卒業。1922年 第三高等学校文科甲類を卒業[4]
京都帝国大学入学?大学院時代

京都帝国大学文学部哲学科に入学[5]深田康算九鬼周造らに師事した。1925年、京都帝国大学を卒業[6]。「藝術上ノ形式ノ問題」の研究のため、同大学院に入学[7]。大学院進学後、恩師深田康算の依頼によって京都哲学会の学会誌『哲学研究』の編集にかかわり、この頃よりカントからマルクスの研究へと関心を深めていった。1933年滝川事件がおこる。滝川事件に際して処分に反対する京大文学部院生グループの中心人物として活動。以後、社会情勢のファシズム化に抗して左翼文化活動への関与を深める。
研究者となり、太平洋戦争終結まで

1935年、京都帝国大学文学部講師となり[8]1936年、『世界文化』1月-3月に「委員会の論理」を発表。1937年左翼活動により治安維持法違反の疑いで検挙される。1940年、裁判で懲役2年、執行猶予2年の判決。以後、終戦まで当局の監視下に置かれた。1945年尾道に疎開。尾道市立図書館館長に着任。民衆文化の地方からの再生を掲げて社会教育活動を推進した。
戦後

1946年、広島県地方労働委員長となった[9]1947年広島県知事選挙に立候補する。しかし落選した[10]

1948年、参議院図書館運営委員長であった羽仁五郎の推薦で国立国会図書館副館長に就任。羽仁の腹案では中井を館長として招聘する予定であったが、中井の左翼活動の経歴が問題視され、保守層からの強い反対が起こった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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