中井徳次郎
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日本政治家中井徳次郎なかい とくじろう
生年月日1907年5月29日
出生地三重県伊賀市
没年月日 (1991-12-18) 1991年12月18日(84歳没)
出身校京都帝国大学法学部
(現・京都大学法学部
前職三重県上野市
所属政党(右派社会党→)
日本社会党
親族長男・中井洽
三男・中井省
衆議院議員
選挙区三重県第1区
当選回数6回
在任期間1953年4月20日 - 1960年10月24日
1963年11月21日 - 1972年11月13日
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中井 徳次郎(なかい とくじろう、1907年明治40年)5月29日[1] - 1991年平成3年)12月18日[1])は、三重県出身の政治家。三重県上野市(現在の伊賀市)の市長だった。日本社会党に所属して衆議院議員を6期務めた。長男の中井洽も衆議院議員となった。 
略歴
学歴

三重県立上野中学校第八高等学校を経て、京都帝国大学法学部卒業後、高等文官試験合格。
満洲国での官僚時代

満洲にわたり全満洲の電気供給事業を統制して電力・電燈の供給事業を独占的に行う満洲電業株式会社に入社。企画主計課長、文書課長を歴任した後、長男のが満洲で誕生した。終戦で三重県に引揚げた[2]
上野市長時代

1947年(昭和22年)に全国で最初の日本社会党の公認候補者として三重県上野市長に当選し、以後2期、革新的な市政を行った。上野市長としては伊賀地方の観光産業の育成と伊賀上野の魅力をアピールする事を目的に伊賀上野世界こども博覧会を開催する。1952年(昭和27年)3月15日から5月15日の期間に開催されて、博覧会の会場は伊賀上野白鳳公園で、主催者は上野市であった。後援者は三重県滋賀県京都府奈良県の各近隣府県で、三重県教育委員会・滋賀県教育委員会・京都府教育委員会・奈良県教育委員会の各府県の教育委員会であった。協賛者は日本国有鉄道近畿日本鉄道株式会社・日本交通公社三重交通株式会社。開催の前の年である1951年(昭和26年)8月、上野市議会で博覧会の開催を提案する演説で「博覧会の赤字経営による損失の覚悟は約500万円ぐらいである」と市議会で議員に説明をした。
衆議院議員時代

2期目の任期途中である1953年(昭和28年)に日本社会党から第26回衆議院議員総選挙で初当選する。社会党右派に所属した。1955年(昭和30年)10月13日社会党再統一がされた直後の第27回衆議院議員総選挙で再選される。1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙では、自由民主党が公認5人(木村俊夫山手満男・川崎秀二・田中久雄・青木理)と推薦無所属2人(松本一郎久保田藤麿)の合計7人の定員オーバーの状態であり、同じ選挙区の三重1区から日本社会党の2人目の公認候補として小林正美も出馬したが、亀山市を境界に四日市市を中心とする北部は新人の四日市市出身の小林正美候補で、伊賀津市などの南部は現職の中井徳次郎とする地盤割りが成功して共に当選した。1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙では小林正美が選挙前に急死して未亡人小林ちづが代わりに出馬、同情票がたくさん集まった事から当選して、中井と自民党の川崎秀二が落選する番狂わせがおきた。中井が日本社会党内の浅沼享子と同様未亡人は1期までの女性差別意識から小林ちづの日本社会党の公認候補として衆議院議員選挙の立候補を辞退させた。小林ちづの立候補を辞退させた事で1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙では6万票のトップ当選で返り咲き、以後1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙(51902票で落選した久保田藤磨の51353票と549票差の滑り込み当選)でも連続当選を果たした。
政治信条
議員活動

党職として日本社会党の三重県連合会長・党中央執行委員・中小企業局長・政策審議副会長・国会対策副委員長の役職と四日市ぜんそくの公害問題では、地元三重第1区選出の議員として日本社会党の公害対策委員長を務めて公害問題の解決に尽力した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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