中井弘
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中井 弘

生年月日1839年1月14日
没年月日 (1894-10-10) 1894年10月10日(55歳没)
称号錦鶏間祗候
第3代 滋賀県令・県知事
在任期間1884年7月9日 - 1890年5月21日
元老院議官
在任期間1890年5月21日 - 同10月20日
貴族院議員
在任期間1890年9月29日[1] - 1894年10月10日
第5代 京都府知事
在任期間1893年11月 - 1894年10月10日
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中井 弘(なかい ひろし / ひろむ[注 1]1839年1月14日天保9年11月29日)- 1894年明治27年)10月10日)は、日本武士薩摩藩士)、外交官政治家である。号は桜洲(桜州山人)。別名:横山休之進、鮫島雲城、後藤休次郎、田中幸介、中井弘蔵。書家としても知られる。鹿鳴館の名付け親でもある。著書に『合衆国憲法略記』『西洋紀行航海新説』『魯西亜土耳其漫遊記程』などがある。逸話が多く、明治の怪傑、奇人、滑稽家として知られた[2][3]
経歴造幣局時代の中井弘(後列右、後列左は写真師の久世治作)。前列左より伊藤博文大隈重信井上馨

薩摩藩鹿児島城下に藩士・横山休左衛門(詠介)の長子として生まれ(幼名:休次郎、元服後休之進)、藩校の造士館に学ぶ[4]。祖父の代までは藩の重職にあったが、父の代には没落し経済的に困窮していた[5]。その後、脱藩して京都に行き[4]浪人となるが、後藤象二郎坂本龍馬らにその剛毅な性格を愛され、彼らが工面した資金で、1866年11月(慶応2年10月)に土佐藩士の結城幸安とともに[6]イギリスへ密航留学する。1867年春に帰国[6]。その後、宇和島藩周旋方として京都で活躍。中井弘三と改名し、1868年1月、外国事務各国公使応接掛となる[4]

同年3月のイギリス公使パークス襲撃事件では、パークス一行の護衛として襲撃犯の一人・朱雀操と斬り合い、自身も頭部に傷を負いながらも朱雀の胸部を刺し、後から駆けつけた後藤に朱雀が斬られて倒れたところを首を刎ねた。パークスらを救った功績により、後藤と共にイギリス・ビクトリア女王から宝刀を贈られた。この一件により、尊王攘夷派から「同志を斬り外国人を守る国賊」として暗殺されるおそれが出たため、尊王家・高山彦九郎を弔う詩を書きつけた名入りの扇数百本を京都寺町の扇屋に注文し、わざと代価を支払わず、扇屋が叩き売るのを待ってそれを市中に流通させ、中井に尊王の意ありと広く知らしめることで難を逃れた[4]

1871年に官途に復帰し、1872年に左院四等議官となる[7]。1873年、中国、ロシア、トルコ、ギリシャ、インド、エジプト、フランス、イギリス、アメリカ合衆国などを回り、1876年に帰国(『漫遊記程』に記録)[8]。イギリスでは日本公使館書記官を務めた[7]。帰国後、工部省権大書記官となる[7]

その後、寺島宗則らとともに外交面で活躍。明治17年滋賀県知事貴族院議員を歴任。明治23年(1890年)10月20日、錦鶏間祗候となる[9]。明治26年(1893年京都府知事に就任し、在任中は第4回内国勧業博覧会や京都舞鶴間鉄道の建設に力を尽くしたが、完成を待たずして執務中に脳出血で倒れ、死去。享年57。墓所は東福寺即宗院。
人物・逸話中井弘寓居跡 京都三条木屋町下ル

井上馨の妻の武子新田俊純の娘)は当初中井の妻であったが、ゆえあって離別し、大隈重信にあずけられた。間もなく井上が武子をみそめ、大隈、伊藤博文らの世話で結婚することになった。式の当夜に中井が大隈邸に顔を出したため、関係者が大いに慌てたという。ただし、武子が中井の妻だったという話は史料上では一切確認できない。昭和以降の創作と考えられ、武子は井上馨との結婚が初婚である。

中井の娘(二番目の妻との子)・貞子は、原敬の最初の妻である。そのため原は中井と気が合ったらしい。貞子は、天津領事に任命された原敬と1883年に15歳で結婚、朝鮮赴任から帰国した1896年より別居し、1899年に再び同居するが、貞子が他の男の子供を宿したため、1905年に離婚[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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