中世後期
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ミケリーノによるダンテ

中世後期(ちゅうせいこうき)は、西洋史学における中世盛期の後に続く14・15世紀頃(c. 1300年-1500年)の時代を指す時期区分である。中世後期に続くのは近世ルネサンス)である。

1300年頃、それまでの数百年間のヨーロッパの繁栄と成長に歯止めがかかった。1315年から1317年の大飢饉や黒死病といった、一連の飢饉と疫病によって人口が激減した。人口減少とともに社会不安と地域的騒乱が出来し、都市や農村での民衆暴動や党派的抗争が頻発した。フランスイングランドでは、ジャックリーの乱ワット・タイラーの乱といった大規模な農民蜂起が起こった。この時代の多くの問題に加えて、カトリック教会の統一性は教会大分裂によって打ち砕かれた。こうした事件はまとめて中世後期の危機と呼ばれることがある[1]

こうした危機にもかかわらず、14世紀は技芸と科学において大きな発展を遂げた時代でもあった。イスラム世界やビザンツで継承されていた古代ギリシアローマの文献に対する、中世盛期に復活した関心(12世紀ルネサンス)は、中世後期を通じて後にイタリアルネサンスと呼ばれることになる事象につながっていく。ラテン語文献の吸収は十字軍におけるアラブ人との接触を通じて中世盛期に始まったが、重要なギリシア語文献の獲得はオスマン帝国によるコンスタンティノープル占領によって加速した。この時、多くのビザンティンの学者が西欧(特にイタリア)に亡命しようとしたためである[2]

この古典思想の流入とあいまって、印刷の発明は印刷物の普及と学問の大衆化を促進した。このふたつのことは、後に宗教改革につながっていくことになる。この時代の終わりごろ、発見の時代が始まった(大航海時代)。1453年のコンスタンティノープル陥落で全盛期を迎えたオスマン帝国の隆盛によって、東洋との交易機会は阻まれ、ヨーロッパ人は新たな貿易航路の発見を余儀なくされた。1492年のコロンブスによるアメリカ大陸への航海や、1498年のヴァスコ・ダ・ガマによるアフリカ経由のインドへの周航の背景にあったのもそれである。かれらの発見はヨーロッパ諸国の経済と国力の強化に寄与した。

これらの諸発展がもたらした変化から、これまで多くの学者が中世後期を、中世の終焉へ至り、近代世界と近世ヨーロッパの開幕へつながっていくものとみなしてきた。しかし、古代の学問がヨーロッパ社会から完全に失われることはなかったことから、古典古代と近代との間にはある程度の連続性があると論じる学者もおり、そうした人々にとって、この時代区分がいささか人為的な区分であることに変りはない。特にイタリアにみられるが、中世後期について毫も言及しようとせず、14世紀ルネサンスを近代への直接的な移行期と捉える歴史家もいる[要出典]。
歴史的事件

キリスト教のヨーロッパの境界は、14世紀と15世紀にかけて依然として変化の途上であった。モスクワ大公国モンゴルを撃退し始めていてイベリアの王国が半島のレコンキスタを完了しさらにその外部にまで目を向けていた一方、バルカン半島オスマン帝国の支配に屈した[3]。一方大陸の他の国は、ほとんど国の内外の絶え間ない衝突に明け暮れていた[4]

状況は徐々に中央権力の統合と国民国家の出現へとつながっていった[5]。戦争による財政負担は、代議院制(一番有名なのはイングランド議会)の出現による重い税負担を必要とした[6]。世俗権力が増大したことで更に教会大分裂により教皇権の衰退を助長し、宗教改革を齎した[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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