中世ヨーロッパにおける教会と国家
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The Cross of Mathildel中世のカトリック教会は教会国家という世俗的な基盤を有しながらも、全ヨーロッパ規模での普遍的な権威を主張した。近代ヨーロッパ各地に国民国家が成立していくと教皇領は世俗国家に回収された。現在ローマ教皇庁は独立国家バチカン市国にある。

中世ヨーロッパ史においては、西欧諸国の学界においても日本の学界においても「教会と国家」と称せられる巨大な研究領域が存在する[1]。前近代社会においては政教分離を基本的な原則とする現代の先進国とは異なり、宗教と政治は不可分の要素として存在しており、西ヨーロッパ中世世界の特有なあり方に多くの研究者の興味が寄せられて来た[1]

本記事では、中世ヨーロッパにおける教会(カトリック)と国家のありかたの推移を概説する。この期間は一般に封建時代と呼ばれる。ここでは西ローマ帝国滅亡後、キリスト教普遍世界の成立期から宗教改革の起こるまでの、およそ500年から1500年までの約1000年間を取り扱う。
概要中世以前については「初期キリスト教」・「古代末期のキリスト教」を、通史は「キリスト教の歴史」を、正教世界は「東ローマ帝国」・「正教会の歴史」を参照

古代末期または中世初期56世紀の段階においては、ゲルマン人の侵入や西ローマ帝国の滅亡など歴史的な地殻変動を象徴する事件が起きた後であったにもかかわらず、なお地中海をとりまくローマ世界はビザンツの帝権の下に存続していたと見ることができる[* 1]。6世紀のユスティニアヌス帝は一時的にあるにせよ、地中海の大部分を制圧し、かつてのローマ帝国を再現することも出来た[6]

しかしながら、78世紀になると、地中海を中心とした統一的な世界はもはや完全に消滅し、西欧はローマを中心としたカトリック世界として、コンスタンティノープルを中心とする正教世界とは分離する傾向が決定的となる。その要因としては以下の3つを挙げることが出来る。
イスラーム教徒の侵入

ビザンツ帝権の弱体化

ローマの自立

まず、イスラーム教徒が急速に勢力を拡大し、北アフリカイベリア半島を制圧するに及んで、従来これらの地で高度に発達していたキリスト教の文化は衰退した。今日に至るまでイベリア半島を除くこれらの大部分の地域はイスラーム圈にとどまっている。とくに教会会議が頻繁に開かれ、中世初期において西方のキリスト教世界の一つの中心であったイベリア半島陥落の影響は大きい[7][* 2]

次にビザンツ帝国は一時的に地中海を回復したものの、イスラーム教徒の東地中海地域での拡大とランゴバルト族のイタリア半島侵入によって支配領域を縮小させ、西地中海での覇権を維持することが困難となった。これ以後ビザンツの帝権は南イタリアの支配地域を通じて間接的にしか西方世界に影響を及ぼせなくなる。

第三にローマ司教である教皇は上記のようなビザンツ帝権の影響力低下に伴って、西方世界において強力な庇護者を別に求めねばならなくなった。と同時に、東方から自立して西方世界の宗教指導者たらんと積極的な布教活動に乗り出す。8世紀ビザンツで起こった聖像破壊運動に対する教皇の対応の仕方はこの表れで、教皇は西方教会をして、この運動の蚊帳の外におくことに尽力した。

こうして東ヨーロッパと西ヨーロッパは、ローマ帝国とキリスト教という共通の根を持ちながらも、それぞれ独自の発展をしていくことになる。この節で中心的に述べるキリスト教普遍世界とはこのうち西欧を中心としたカトリック世界のことである[* 3]
教皇国家の成立天国への鍵を授けられるペテロ
イエスはペテロに天国の鍵を預けたとされ、彼が最初のローマ司教となったことで、彼の後継者であるローマ司教にその権威が受け継がれているという観念が広まった。ローマ教皇はこの鍵を自身のシンボルとして用いている「教皇領」および「初期キリスト教」を参照

ここではやや時代を遡って教皇国家あるいは教皇領と呼ばれる教皇の世俗支配の形成過程を概観する。
西ローマ帝国の滅亡と西地中海世界

西ローマ帝国の領域にゲルマン人が多数の国家を形成し、西ローマの皇帝権が没落して古代的な帝国支配が弛緩すると、古都ローマはほとんどゲルマン人の支配の間に孤立した形となり、東ローマ帝国とのつながりは徐々に薄れて西ローマ帝国の領域は独自の発展をしていくようになる。しかしながらゲルマン人たちが西ヨーロッパで優勢を占めているように見えても、かつてのローマ帝国の西側と東側は地中海によって繋がれており、文化的経済的な繋がりは維持されていたのであって、突然にローマ的な文明がゲルマン的な文明になってしまったわけではない[10]。地中海世界での東ローマ皇帝の優位性はいまだ揺らいではいなかったし、ゲルマン人たちは皇帝の支配を名目上は受け入れて、彼ら自身が皇帝になりかわろうという意図を持つことはほとんどなかった[11]。ただ一方でこのような状況がローマ教皇に一定の自立性の根拠を与えたのであり、東方の正教会とは独自のカトリック教会が生まれる素地がここにあったことは間違いない。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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