なかみがわ ひこじろう
中上川 彦次郎
肖像写真
生誕1854年10月4日
豊前国中津藩
死没 (1901-10-07) 1901年10月7日(47歳没)[1]
墓地青山霊園1ロ20-7
出身校慶應義塾
職業工部省
外務省太政官権大書記官
中上川 彦次郎(なかみがわ ひこじろう、嘉永7年8月13日(1854年10月4日) - 明治34年(1901年)10月7日)は、明治時代の官吏・実業家。三井財閥の工業化と三井銀行の不良債権処理を推進し、三井家の最高議決機関である「三井家同族会」を設置。「三井中興の祖」として高く評価されている。従五位。三井合名理事長。福澤諭吉の甥(母・婉が諭吉の姉)にあたる。三女はタレント・参議院議員の藤原あき。 現在の大分県中津市金谷森ノ丁に豊前中津藩士・中上川才蔵・婉夫妻の長男として生まれる。 手島物斎 1878年(明治11年)、工部卿・井上馨に誘われて工部省に入省。井上馨の秘書官となる。井上が外務卿となると中上川も外務省に入り、従六位に叙せられ太政官少書記官
経歴
生い立ち
井上馨の知己
この頃、伊藤博文から要請を受けた官制新聞『公布日誌』発刊の計画の打診について、福澤諭吉の代わりに断りの打診を告げる。明治十四年の政変による失脚という政変に伴い、外務省を辞す。後に福澤の勧めで時事新報社社長となる。 三菱の荘田平五郎から社長就任の要請があり、1887年(明治20年)山陽鉄道(現在のJR山陽本線の前身)創設時の社長となる。建設に当たっては、瀬戸内海航路との競争を意識して、「線路の勾配を100分の1以内(10パーミル以内)にせよ」との方針を打ち出し、「百分の一」「ワン・ハンドレッド」とあだ名された[2]。しかし90年不況の影響で経営不振となり、工事がストップしたまま、1891年(明治24年)に社長を辞任する。1892年(明治25年)、社長に就任した松本重太郎は借入金と社債発行により資金調達の道をつけ、三原?広島間の敷設を1894年(明治27年)までに完成させた。 山陽鉄道の社長時代には、当時「車長」と呼ばれていた役職を、「社長」と響きが同じで良くないとして「車掌」という語を考案している[3]。 1891年(明治24年)、三井銀行の経営危機に際して井上馨の要請を受けて福澤諭吉は当初、学卒第一号の高橋義雄を慶應から選んだが、失敗した。そこで、慶應を卒業して福澤の甥っ子であり、上述のように井上とも知己であった中上川が山陽鉄道を退社して三井財閥に入る[4]。1891年(明治24年)、山陽鉄道を辞して三井銀行に入行、理事となる。三井鉱山理事、三井物産理事、三井呉服店調査委員を兼務し、三井大元方参事となる。 三井銀行及び同財閥の経営を任された中上川は益田孝らとともに三井財閥が政商として抱えていた明治政府との不透明な関係を一掃。不良債権の回収に奔走し、まず手始めに本願寺から差し押さえも辞さない態度で債権回収に成功、また伊藤博文の京遊びの不足分の借り受けの申し込みも断り、さらに井上馨の反対を押し切って桂太郎の邸宅を差し押さえるなど、豪腕にして財務体質の健全化を図ったが、水面下では次第に中上川反対派が結成された[5]。
山陽鉄道時代
三井改革