並木 宗輔(なみき そうすけ、元禄8年〈1695年〉? 寛延4年9月7日〈1751年10月25日〉)とは、江戸時代の浄瑠璃作者。一時期、並木千柳(なみきせんりゅう、初代)と称した。浄瑠璃の三大傑作といわれる『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』、『仮名手本忠臣蔵』の作者(合作)として名高い人物である。 もと備後国三原(現在の広島県三原市)にある臨済宗成就寺の、断継慧水という僧侶であった。三原の出身ではなかったらしく、大坂生れともいわれるがその出自については明らかではない。享保9年(1724年)、30歳のころ還俗して大坂に移り浄瑠璃作者となった。なぜ還俗して浄瑠璃作者になったのか、その経緯についても不明である。通称を松屋宗輔と称したが、この「松屋」とは大坂に移った際に入った養子先(または婿入り先)の屋号ではないかという。 当初並木宗助と名乗って豊竹座付の作者西沢一風の門人となり、享保11年(1726年)初演の『北条時頼記』に初めて作者として名をあらわしているが、その次の作『清和源氏十五段』で立作者(合作における監督責任者)となっている。元文2年(1737年)の正月以降、名を並木宗輔と改め単独作、合作も含めて多くの作を著した。この豊竹座時代の宗輔の作風は人間の本能の激しさ、罪業の深さ、封建社会の矛盾などを緻密な構成と写実的な筆致で描き出し非常に暗いといわれる。 以下は合作ではない宗輔の単独作で、全て豊竹座での初演である。 なお遺作となった『一谷嫩軍記』については三段目(熊谷陣屋の段)まで宗輔が書いていたが、のちに上演するに当って浅田一鳥
経歴
作品
『南蛮鉄後藤目貫』 - 享保20年(1735年)2月初演。
『和田合戦女舞鶴』 - 享保21年(1736年)3月初演。
『安倍宗任松浦衣?』 - 元文2年1月初演。
『釜淵双級巴』 - 元文2年7月初演。
『丹生山田青海剣』 - 元文3年(1738年)4月初演。
『奥州秀衡?壻』 - 元文4年(1739年)2月初演。
『狭夜衣鴛鴦剣翅』 - 元文4年7月初演。
『?山姫捨松』 - 元文5年(1740年)2月初演。
脚注^ 河竹繁俊『歌舞伎・文楽史話』河出文庫、11955、77p頁。
^ 河竹繁俊『歌舞伎・文楽史話』河出文庫、11955、78p頁。
参考文献
内山美樹子総監修 『並木宗輔展 浄瑠璃の黄金時代』 早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、2009年
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