両統迭立
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両統迭立(りょうとうてつりつ)は、一国の世襲君主の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に君主を即位させている状態である。「迭」は「たがいに」「かわるがわる」の意。

日本では、鎌倉時代に皇統が2つの家系に分裂し、治天天皇の継承が両統迭立の状態にあったことが最も著名である。
日本
鎌倉時代

鎌倉時代の両統迭立は、後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇の子孫である持明院統と、第4皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統とのあいだで行われた。
端緒持明院統・大覚寺統両統関係系図

仁治3年(1242年)に即位した後嵯峨は、寛元4年(1246年)に皇太子久仁親王(後深草天皇、4歳)に譲位して院政を開始したあと、後深草に皇子が生まれるのを待たず、正嘉2年(1258年)に後深草(16歳)の同母弟恒仁親王(亀山天皇、10歳)を皇太子とし、さらに翌正元元年(1259年)には後深草から恒仁に譲位させた。後深草にはその後皇子が生まれたが、文永5年(1268年)、後嵯峨は、後深草の嫡男(第2皇子)煕仁親王(4歳)をさしおいて亀山の嫡男(第2皇子)世仁親王(2歳)を皇太子とした。

この一連の措置から、後嵯峨が亀山を自らの後継者としその子孫に皇統を伝える意図を持っていたことは容易に推測できるが、後嵯峨はその意図を明確にせずに文永9年(1272年)に死去した(53歳)。遺言状も財産の分与をこまごまと定めるのみで後継者を指名する文言はなく、ただ次代の治天の指名は鎌倉幕府の意向に従うようにという遺志だけが示された。後深草と亀山はそれぞれ次代の治天となることを望んで争い、裁定は幕府に持ち込まれた。幕府は、後嵯峨の正妻であり後深草と亀山の生母でもある大宮院(西園寺?子)に故人の真意がどちらにあったかを照会し、大宮院が亀山の名を挙げたことから亀山を治天に指名した。後嵯峨がこのような曖昧な態度をとったのは、自身が幕府の介入によって傍系から予想外の即位をした経験を踏まえ、後継者を指名しても幕府の意にかなわなければ簡単に覆されてしまうことをよく知っていたためであろう。更に近年、後嵯峨院政はそれほど安定したものではなく、叔父順徳天皇の皇統を復活させようとする人々(生母の修明門院や子孫である岩倉宮四辻宮など)に脅かされており、親王将軍の成立も後嵯峨にとっては順徳系復活の動きに対抗するために鎌倉幕府の関係を強化するための方策であったとする指摘も出されており(曽我部愛)、幕府の支援がなければ自身の皇統の維持すら危うい立場にあった後嵯峨の苦しい現状の反映であった可能性もある。

亀山はしばらく在位のまま政務を執り、文永11年(1274年)には皇太子世仁(8歳、後宇多天皇)に譲位した。

一方、治天の地位を逃した後深草は不満を募らせ、後宇多が即位すると抗議のため上皇の待遇を辞退して出家しようとした。後嵯峨は、膨大な帝の領荘園群のうち、全国100ヶ所以上の荘園から構成される大荘園群長講堂領を後深草が相続できるようとりはからっていたが、皇室伝来の坂上田村麻呂の御佩刀(坂家宝剣[注 1])が後嵯峨の意向により亀山に伝えられ、大宮院も関与していたことに後深草の不満は収まらなかったのである[1]。のちに長講堂領は持明院統の重要な財政基盤となる。亀山も対抗措置としてやはり200ヶ所にのぼる大荘園群八条院領をのちに手に入れ、こちらは大覚寺統の主要な財政基盤となった。2つの皇統は、こののち、治天天皇皇太子の地位だけでなく、女院などの皇族たちが分散して管理する王家領荘園群の熾烈な争奪戦も演じることになり、王家は政治的にだけではなく経済的にも分裂状況に陥ることになる。後深草の不満を受けて、承久の乱以来の慣行に従って幕府が皇位継承に介入し、建治元年(1275年)に煕仁(11歳)を皇太子に指名、将来、後深草が治天となることを保証した。この介入は、執権北条時宗が後深草の立場に同情したためという説明が当時からなされている(「増鏡」)ほか、得宗と治天の交渉を仲介する立場にある関東申次西園寺実兼が亀山父子よりも後深草父子と親しかったため、後深草にとって有利な解決をはかったことも指摘されている。この時点ですでに幕府は摂関家が分裂したのと同様に皇統をも分裂させる意図を持っていたとも言われる(本郷和人)が、幕府の意図は元寇の最中にあって内憂を取り除くべく後深草の不満を和らげ、皇族・廷臣融和を図るというものであり、そのことが後に皇統の分裂につながるとは思い及んでいなかったとの指摘もあり(近藤成一)、この点は史料がなく真相は不明である。鎌倉時代には、公家社会一般で分家を次々に創出させる傾向が見られたことにも留意する必要がある。いずれにしても、建治元年の幕府の介入によって、後深草と亀山の両者が等しく皇位を子孫に伝え自らは治天となる資格を有することが確定し、これが以後200年に及ぶ皇統分裂の端緒となった。
定着

亀山は、朝廷の訴訟処理機構の整備を進め、また公家社会の身分秩序を律する「弘安礼節(弘安書札礼)」を制定するなど、意欲的に政務に取り組んだ。この時期を「弘安の徳政」とも呼ぶ。同じころ幕府でも安達泰盛が主導する徳政が行われており、亀山と泰盛とのあいだには文化交流など個人的なつながりもあることから、公武両徳政には密接な連関があるものと考えられている。

しかし、弘安8年(1285年)に泰盛とその与党が平頼綱らのクーデターである霜月騒動により殺害・追放されて幕府の政策が転換すると、その影響が朝廷にも及び、亀山の院政は動揺した。このころ後深草も後嵯峨は亀山を後継者に指名してはいない旨を幕府に申し入れるなどの工作を行っている。亀山が倒幕を考えている、という噂が立つなどの政情不安のなか、結局、弘安10年(1287年)になって幕府は治天・天皇の交替を要求し、皇太子煕仁(23歳、伏見天皇)が践祚して後深草による院政が開始された。正応2年(1289年)にはこれも幕府の指名により伏見の第1皇子胤仁親王(2歳)が皇太子に立てられ、さらに同年後深草の皇子久明親王鎌倉殿として幕府に迎えられた。後深草はこれを見届けると正応3年(1290年)に出家(48歳)し、治天の政務も伏見に譲って引退した。この時点では、まだ両統迭立が完全には定着しておらず、貴族たちもいずれか一方の皇統にのみ仕えて派閥を形成するということはなかったため、それまで大覚寺統の治天に仕えていた貴族たちはそのまま持明院統の治天に仕えることになり、大覚寺統は一気に勢力を失った。亀山は失意のうちに正応2年に出家(41歳)し、翌正応3年に霜月騒動で所領を失った武士浅原為頼らが内裏に乱入し伏見を殺害しようとする事件が起きると関与を疑われ、起請文を幕府に提出して身の潔白を主張しなければならなかった。

治天となった伏見は、亀山が政務を執った時代に整備された訴訟処理機構をさらに拡充し、家柄にとらわれない人材登用を積極的にめざすなど、政務の振興に努力した。伏見が抜擢した人物としてもっとも著名なのは京極為兼である。為兼は伏見の信任を背景に二条家と並ぶ歌壇の一方の指導者となっただけでなく、政務にも深く関与した。ただ、為兼の強烈な個性は多くの敵をつくり、伏見の積極的な政治姿勢とも相まって、関東申次西園寺実兼との対立や幕府の警戒を呼ぶ結果となった。伏見は永仁6年(1298年)に皇太子胤仁(10歳、後伏見天皇)に譲位したが、次の皇太子の人選をめぐって大覚寺統の巻き返しが起こり、実兼もこれに加担した。結局、皇太子には後宇多天皇の第1皇子邦治親王(14歳)が指名された。伏見は引き続き政務を執ったが政権は安定せず、正安3年(1301年)、幕府は治天・天皇の交替を要求し、邦治(17歳、後二条天皇)が践祚して後宇多による院政が開始された。

両統迭立が鎌倉幕府(最高権力者は得宗北条貞時)の公式な方針として表明されたのは、この交替のときが最初である。


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