両界曼荼羅
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両界曼荼羅(りょうかいまんだら)は、日本密教の中心となる仏である大日如来の説く真理や悟りの境地を、視覚的に表現した曼荼羅である。目次

1 概要

2 起源・伝来

3 構成

3.1 胎蔵曼荼羅

3.2 金剛界曼荼羅


4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典


5 参考文献

6 関連項目

概要

日本密教の教えの中心ともなる大日如来を中央に配して、更に数々の「仏」を一定の秩序にしたがって配置したものであり、「胎蔵曼荼羅」(胎蔵界曼荼羅とも)、「金剛界曼荼羅」の2つの曼荼羅を合わせて「両界曼荼羅」または「両部曼荼羅」と称する。「胎蔵」は客体、「金剛」は主体表現であるとされる@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}[1][要追加記述]。一般に知られる個々の「仏」の像を絵画で表した『大曼荼羅』[注釈 1]のほかに、1つの仏を1文字の梵字(サンスクリットを表記するための文字のひとつ)で象徴的に表した『法曼荼羅』[注釈 2]や、1ずつの仏をその仏の内証を象徴的に表す「三昧耶形」で描いた『三昧耶曼荼羅』[注釈 3]、日本ではインド密教古来の地面に描く曼荼羅[注釈 4]の姿に倣って仏像を伽藍内に配置したものを『羯磨曼荼羅』[注釈 5]といい、これらを総合して「四種曼荼羅」と呼ぶ。
起源・伝来

胎蔵曼荼羅(大悲胎蔵曼荼羅)は主に『大日経』に基づき、金剛界曼荼羅は『金剛頂経』(経典群)という密教経典に基づいて描かれている。『大日経』は7世紀の中頃、インドで成立したものと言われ、インド出身の僧である善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう、637年 ? 735年)が、中国人の弟子の一行禅師(いちぎょうぜんじ、683年 ? 727年)と共に8世紀前半の725年(開元13年)前後に漢訳(当時の中国語に翻訳)したものである。一方の『金剛頂経』は7世紀末から8世紀始めにかけてインドで成立したもので、『大日経』が訳されたのと同じ頃に、インド出身の僧である金剛智三蔵(671年 ? 741年)と、弟子の不空三蔵(705年 ?774年)によって漢訳されている。なお、日本密教の伝承によれば、『金剛頂経』は十八会(じゅうはちえ)、つまり、大日如来が18回のさまざまな機会に説いた説法を経典としたものを、それぞれまとめて十八本に集大成した膨大なものであるとするが、金剛智三蔵と不空三蔵が訳したのはそのうちの初会(しょえ)のみであるとされ、この初会の経典を『真実摂経』(しんじつしょうぎょう)とも言う。

いずれにしても、『大日経』と『金剛頂経』は同じ大日如来を主題として取り上げながらも系統の違う経典であり、違う時期にインドの別々の地方で別個に成立し、中国へも別々に伝わった。これら2系統の経典群の教えを統合し、両界曼荼羅という形にまとめたのは、空海の師である唐僧の恵果阿闍梨(746年 ? 805年)であると推定されている。恵果阿闍梨は、密教の奥義は言葉では伝えることがかなわぬとして、宮廷絵師の李真に命じて両界曼荼羅等々を描かせ、空海に与えた。空海は、唐での短い留学を終えて806年大同元年)に帰国した際、それらの曼荼羅を持ち帰っている。

空海が持ち帰った彩色両界曼荼羅(根本曼荼羅)の原本および弘仁12年(821年)に製作された第一転写本は教王護国寺に所蔵されていたが失われており、京都・神護寺所蔵の国宝・両界曼荼羅(通称:高雄曼荼羅)は彩色ではなく紫綾金銀泥であるが、根本曼荼羅あるいは第一転写本を忠実に再現したものと考えられている。
構成
胎蔵曼荼羅

胎蔵曼荼羅(「胎臓」も使われる)は、詳しくは『大悲胎蔵(だいひたいぞう)曼荼羅』[注釈 6]といい、原語には「世界」に当たる言葉が入っていないが、金剛界曼荼羅に合わせて、古くから「胎蔵界曼荼羅」という言い方もされている。曼荼羅は全部で12の「院」(区画)に分かれている。その中心に位置するのが「中台八葉院」であり、8枚の花弁をもつ蓮の花の中央に胎蔵界大日如来(腹前で両手を組む「法界定印」を結ぶ)が位置する。大日如来の周囲には4体の如来(宝幢?ほうどう、開敷華王?かいふけおう、無量寿?むりょうじゅ、天鼓雷音?てんくらいおん)を四方に配し、更に4体の菩薩(普賢菩薩文殊師利菩薩観自在菩薩慈氏菩薩)をその間に配して、合計8体が表される。

なお、通常日本に取り入れられた曼荼羅の呼称について胎蔵界曼荼羅・胎蔵曼荼羅の2つが併用されているが、密教学者・頼富本宏は『曼荼羅の美術 東寺の曼荼羅を中心として』において「曼荼羅の典拠となった『大日経』と『金剛頂経』のいわゆる両部の大経を意識したものであり、空海もこの用語(注:両部曼荼羅)のみを用いている」「即ち『金剛頂経』には、明確に金剛界曼荼羅を説くのに対して、『大日経』では大悲胎蔵曼荼羅もしくは胎蔵生曼荼羅を説くのにかかわらず、胎蔵界曼荼羅と言う表現は見られないからである」と書いている。また頼富本宏は、円仁・円珍・安然など天台密教(台密)が興隆すると、修法のテキストにあたる次第類の中に「胎蔵界」と言う表現が用いられるようになり、両界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅の語が使われるようになったとする。 胎蔵曼荼羅

外金剛部院

文殊院


釈迦院






遍知院




中台
八葉院

持明院
虚空蔵院
蘇悉地院

中台八葉院の周囲には、遍知院持明院釈迦院虚空蔵院文殊院蘇悉地(そしつじ)院蓮華部院地蔵院金剛手院除蓋障(じょがいしょう)院が、それぞれ同心円状にめぐり、これらすべてを囲む外周に外金剛部(げこんごうぶ)院、またの名は最外(さいげ)院が位置する。これは、内側から外側へ向かう動きを暗示していて、大日如来の抽象的な智慧が、現実世界において実践されるさまを表現するという。

さらに、胎蔵曼荼羅は、中央・右・左の3つのブロックに分けて考えることが必要である。図の中央部は大日如来の悟りの世界を表し、向かって左(方位では南)には聖観自在菩薩(観音菩薩)を主尊とする蓮華部院(観音院)、向かって右(方位では北)には金剛薩?(こんごうさった)を主尊とする金剛手院(金剛部院。薩?院)がある。蓮華部院は如来の「慈悲」を、金剛手院は如来の「智慧」を表すものとされている。
金剛界曼荼羅

日本で一般的に用いられる金剛界曼荼羅は、『金剛頂経』に説かれる二十八種の曼荼羅のうち「金剛会品」の曼荼羅6種、「降三世品」の曼荼羅2種に、『理趣経』の曼荼羅を加えて「九会(くえ)」としたもので[2]、成身会(じょうじんえ)、三昧耶会(さまやえ)、微細会(みさいえ)、供養会、四印会、一印会、理趣会、降三世会(ごうざんぜえ)、降三世三昧耶会の九会(くえ)から成る。この九会で一幅の曼荼羅を構成する手法は日本密教独自の流儀で、チベット密教では行われない。 九会から成る金剛界曼荼羅 チベット仏教の金剛界曼荼羅
のうち、成身会に相当する作例。



四印会

一印会

理趣会


供養会

成身会

降三世会


微細会

三昧耶会
降三世
三昧耶会

中心になる成身会(羯磨会(かつまえ)ともいう)中尊は金剛界大日如来(左手の人差し指を右手の拳で包み込む「智拳印」をむすぶ)である。大日如来の東・南・西・北には阿?(あしゅく)・宝生如来阿弥陀如来不空成就如来の4如来が位置する(大日・阿?・宝生・阿弥陀・不空成就を合わせて金剛界五仏あるいは五智如来という)。各如来の東・南・西・北には四親近菩薩(ししんごんぼさつ)という、それぞれの如来と関係の深い菩薩が配されている。[注釈 7]


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