両国駅
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この項目では、東京都墨田区にある東日本旅客鉄道(JR東日本)と東京都交通局の駅について説明しています。静岡県榛原郡川根本町にある大井川鐵道井川線の駅については「川根両国駅」をご覧ください。

両国駅
JR西口(2016年12月)
りょうごく
Ryōgoku


所在地東京都墨田区横網一丁目
所属事業者

東日本旅客鉄道(JR東日本・駅詳細

東京都交通局駅詳細

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両国駅(りょうごくえき)は、東京都墨田区横網一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京都交通局都営地下鉄)のである。墨田区最西端の駅。
乗り入れ路線[ソースを編集]

JR東日本の総武本線(支線)、東京都交通局の都営地下鉄大江戸線が乗り入れ、接続駅となっているが、一番近い出口同士でも300 m余り離れている。

JR東日本: 中央・総武線(各駅停車) - 駅番号「JB 21」

東京都交通局: 都営大江戸線 - 駅番号「E 12」

JR東日本の駅は、定期列車は緩行線を走る中央・総武線各駅停車のみが停車する。この他、千葉方面の快速線に接続している列車ホーム(後述)が存在するが、現在は臨時列車のみに使用される。

また、特定都区市内制度における「東京都区内」に属する。
歴史[ソースを編集]

当駅は、千葉県方面への鉄道を建設した私鉄であった総武鉄道1904年(明治37年)4月5日に「両国橋駅」として開業させた[1]。総武鉄道は市川駅より東側の区間を先に開業させており、そこから西へ東京へ向かって順次建設を進めてきた。そして、本所駅(後の錦糸町駅)から両国橋駅までの区間が都心側で最後に開業した。この当時、本所から両国橋までの沿線はすでに市街地になっており、盛土・高架とすることを条件に免許が出された[1]。会社側は建設費のかかる高架線を避けようと、地上の線路に変更しようとする工作をしたが、結局煉瓦造りの橋脚の上に鉄桁を載せた形状の高架橋を約1.5 kmに渡って建設して開業することになった[1]。これは日本の鉄道で最初の高架区間であった。当初は単線で開業したが、最初から橋脚は複線用に準備されており、1906年(明治39年)8月19日に複線化された[1]。この高架橋の関係で、垂れ流し式のトイレからの汚物が沿線に被害を及ぼすことを避けるために、本所より西側ではトイレの使用が禁止されていた[1]

総武鉄道の力では隅田川を渡る橋を建設することが難しかったこともあり、両国橋駅は総武鉄道の都心側のターミナルとして機能するようになった。当初の駅舎建物は駅の西側に建てられており、木造2階建てで面積170坪(約562平方メートル)、建設費は約9,000円であった。また、脇に同じく木造2階建ての総武鉄道本社も建てられていた[2]。プラットホームは全長212 mあり、その先の東側にも地下道を通じて亀沢町方面への出口が造られていた[2]。隅田川からの運河が構内に掘られ[2]、水運との連絡が行われるようになっていた。貨物営業は1904年(明治37年)9月1日に開始された[2]

また、吾妻橋駅(現在のとうきょうスカイツリー駅)をターミナルとしていた東武鉄道亀戸線を建設して総武鉄道に乗り入れるようになり、両国橋駅は開業と同時に房総方面だけではなく北関東方面へのターミナルとしても機能するようになった[3]。このために吾妻橋駅は一時廃止されるが、1907年(明治40年)9月1日に総武鉄道が国有化されて国鉄となったこともあり、1910年(明治43年)3月1日に吾妻橋駅を浅草駅に改称して旅客営業が再開され、同年3月27日に両国橋駅への東武鉄道の列車の乗り入れが廃止された[3]。ただし、貨物列車については、1926年(大正15年)7月1日小岩駅金町駅を結ぶ新金貨物線が開通するまで、東武亀戸線を経由して北千住駅で常磐線と連絡する運転が継続された[3]

1923年(大正12年)9月1日に、関東大震災が発生[3]。駅舎は倒壊しなかったが、駅構内の機関車5両、客車94両、貨車48両が延焼により焼失した[3][4]。高架橋も大きな被害を受けて、復旧して運転を再開したのは同年10月9日のこととなった[3]。バラック立ての仮駅舎を建設して暫定的に営業を行っていたが、増大する旅客・貨物需要を捌ききれなくなったため、1929年(昭和4年)12月30日に新駅舎が営業を開始した[3]。これは現在供用されている西口駅舎である。この時点で行き止まり式の2面4線の構造となった。駅舎の面積は3,034坪(約10,030平方メートル)であった[5]。当時は乗車口と降車口が分離されており、外から駅舎に向かって左側に乗車口、右側に降車口があった。内部には出札口、2等待合室、3等待合室、手荷物カウンターなどが設置されていた[5]

元々隅田川の両岸を両国(17世紀まで隅田川が武蔵国下総国の境界であったため)と称し、そこに架かる橋を両国橋と呼んでいたことから、橋の近くにある駅を両国橋と名付けたものであったが、次第に隅田川東岸のことを両国と称するようになった[5]。駅名もまた、一般には単に両国駅と呼ばれることが多くなっていた[5]。そこで、1931年(昭和6年)10月1日に正式に「両国駅」へ改称した[5]

この頃、房総方面にあった全部で94の駅の中では、東京側のターミナルであった両国駅は乗降客数と収入の面ではぬきんでた1位であり、貨物取扱量も第2位であった。東京の鉄道駅の中では東京、上野、新宿、横浜、新橋に次ぐ第6位の取扱収入で、当時は渋谷や池袋などよりも収入の大きな駅であった。しかし、両国駅より西側の総武本線の建設が行われると、このターミナルとしての繁栄は次第に凋落していくことになった。

関東大震災で焼失した市街地の区画整理が行われたことで線路用地の捻出が可能となり、1932年(昭和7年)7月1日に御茶ノ水までの線路が完成し、総武本線の起点が御茶ノ水に変更された[5]。これにより両国は孤立したターミナルの状態を脱することになった。御茶ノ水と両国の間は電化されて電車が折り返し運転を行うようになり、房総方面への列車の乗換駅となった。これに合わせて、現在も使用されている1・2番線のプラットホームが整備された。地下道で従来の列車用ホームとの連絡がなされ、また電車用のプラットホームへ直接出入りできる改札口が高架下に設けられた。当初は両国より東側はまだ電化されていなかったので、房総方面へは両国駅での乗換を必要としていたが、それでも乗り換えだけの乗客は改札口を通過しないため両国駅の乗降客数や収入は大きく減じることになった。さらに電化が東へ進展して1935年(昭和10年)7月1日に千葉駅まで完成すると、房総方面の列車が同駅で折り返すものが増え、次第に両国駅の列車ホームで発着する列車は減少していくことになった[6]。特に第二次世界大戦後の石炭不足による蒸気機関車牽引列車の減少と房総方面が気動車化の重点線区とされたことで、当駅を始発・終着とする房総方面の列車は2往復まで減少することになった。

しかし外房線・内房線とも千葉から先はまだ非電化であり、1958年(昭和33年)7月10日から気動車準急「犬吠」の運転が開始され、その始発・終着駅となった[7]。さらに房総方面の準急・急行は増発され、一部総武緩行線経由で新宿方面へ乗り入れる列車もあったものの、多くの優等列車は当駅始発・終着とされた。これにより再び房総方面へのターミナル駅としての地位が高まることになった[7]。特に毎年夏には房総への海水浴客を輸送するための臨時列車が多数設定されて両国駅の列車ホームは賑わった[7]。後に列車ホームは電化された。


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