丙寅洋擾
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丙寅洋擾
Byeong-in yangyo

沿岸部を攻撃するフランス海軍
戦争:丙寅洋擾
年月日:1866年10月
場所:朝鮮半島
結果:朝鮮軍の勝利
交戦勢力
フランス 李氏朝鮮
指導者・指揮官
アンリ・ド・ベルネ
ピエール=ギュスターヴ・ローズ(英語版) 興宣大院君
韓聖根(朝鮮語版)
梁憲洙(朝鮮語版)
戦力
600名
フリゲート艦1隻
砲艦2隻数百名程度(開戦時)
1万名前後(開戦後)
損害
死者3名
負傷者35名[1]死者4名
負傷者2名
行方不明2名[2]
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丙寅洋擾[3][4][5][6][7][8][9](へいいんようじょう、????、ピョンイニャンヨ、Byeong-in yangyo)とは、1866年10月、フランス人宣教師の処刑(丙寅教獄)を契機として、李氏朝鮮フランス第二帝国との間で発生した戦い。丙寅については、干支による紀年法を参照。

他のアジア諸国と同じく李氏朝鮮においても近代化は遅れており、近代的な軍隊と最初に遭遇した戦いとなった。しかし戦いは文殊山城の戦いと鼎足山城の戦いに勝利した朝鮮軍側の優位に進み、フランス軍は大きく装備に劣る軍隊によって数倍の損害を与えられ最終的にフランス軍は敗走した。同時期に発生したゼネラル=シャーマン号焼き討ち事件によるアメリカ合衆国の介入を阻止した辛未洋擾と合わせて、興宣大院君による孤立主義・排外主義に正当性を与える戦いとなった。こうした孤立路線は10年後に結ばれる日朝修好条規締結まで継続した。
背景 興宣大院君

伝統的に李氏朝鮮は成立以後、宗主国である中国や、隣国の日本といった限られた国との限定的な貿易・外交を除いて孤立主義を選び、国際上の動乱と関係する事を避けていた。だがそれは他国と無縁でいる事を保障した訳ではなく、宗教面ではキリスト教徒の急増という事態に直面していた。

朝鮮半島には大清帝国との繋がりを通じて、18世紀後半からキリスト教の宣教師が定住するようになった。ただすぐにその数が増えた訳ではなく、本格的に布教が始まったのは1840年代に入ってからとなった。フランスの宣教師協会であるパリ外国宣教会は未だ異教徒が多数を占める朝鮮半島に宣教師団を送り込み、1856年に布教責任者となったベルヌー司教(英語版)は3年後には信徒数が1万7000名に達したと報告している[10]

李氏は異国の宗教が力を得ていく事を黙認していたが、1864年に第25代朝鮮国王・哲宗が崩御すると事態は急変する。新たに前王の親族である高宗が14歳の若さで即位すると、幼君を補佐するという名目で父であり王族の一員であった李?応が儒教的精神に由来する大院君(王父)の称号を得て、事実上の摂政に就いた。興宣大院君と尊称される立場となった李?応は息子を傀儡君主として操り、李氏朝鮮の数百年に亘る歴史の中でも特に強権的かつ指導力のある統治を行った。大院君体制の下で集権的な支配体制を確立すべく様々な改革政策を行われ、平行して再び伝統的な鎖国・孤立主義体制が選択された。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}1866年に虐殺されて殉教した宣教師ピエール・アンリ・ドリ(英語版)。韓国のパリ外国宣教会殉教者墓地。

その過程で12名のフランス人宣教師と2万3000名の信徒を抱えるようになっていたキリスト教勢力に対して、「異国の異教徒」として徹底的な弾圧が開始された[11]。また帝国主義時代の只中にあってはヨーロッパ列強からの干渉も本格化し、1866年1月にはロシア帝国の貿易船が訪れている。宮中にすら力を持ち始めていたキリスト教勢力はこれを機会と捉え、ロシア帝国の南進を跳ね除けるべく(朝鮮半島の宣教師団との繋がりが深い)フランス帝国と同盟を結んで自ら開国すべきだと主張し始めた。

大院君は表面的にはこの提案を前向きに検討すると宣言したが、異教徒に靡いた貴族を誘い出す計略であったと考える論者もある。1866年2月、宮殿に召しだされたベルヌー司教は邪教伝道の罪で王国軍に捕らえられた。アヘン戦争アロー戦争で既に表面化していたヨーロッパによるアジア諸国の植民地化に対する野心、及び同時期に起きた洪秀全による太平天国の乱も異国の宗教への敵意に影響したと考えられている。


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