丙型海防艦
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丙型海防艦

艦級概観
艦種海防艦
艦名
前級鵜来型海防艦
次級丁型海防艦
性能諸元
排水量基準:745t
全長67.5m
水線長
全幅8.4m
吃水2.90m
機関23号乙型ディーゼルエンジン2基2軸
1,900馬力
燃料重油106トン
最大速力16.5ノット
航続距離14ノットで6,500海里
乗員
兵装45口径12センチ高角砲 単装2基
25mm三連装機銃2基
三式迫撃砲単装1基[1]
三式爆雷投射機12基
爆雷投下軌条1基
爆雷120個
同型艦56隻

丙型海防艦(へいがたかいぼうかん)は、日本海軍第二次世界大戦において運用した海防艦の艦級である。主に船団護衛に用いられた。基本計画番号はE21b。量産性を最重視し、それまでの日振型鵜来型よりも、さらに小型化・簡略化を推し進めた艦級である。なお「丙型」の名称は計画時の呼称であり各書籍などで普遍的に用いられているもの[2]だが、海軍が定めた艦型名は第一号型海防艦である[3]。同型艦は56隻が竣工した。目次

1 概要

2 戦果

3 同型艦

4 脚注

5 参考文献

6 関連項目

概要

日本海軍は、第二次世界大戦の後期に、大量の護衛艦を必要としていた。択捉型以降、対潜・対空性能および量産性を重視した海防艦を建造しようと努力し、かなり簡略化が進められた日振型・鵜来型を建造するに至った。しかし戦況の悪化に伴い、それ以上の護衛艦艇の増強が求められたため小型化を更に推進、艦型もさらに簡略化し量産性に適した艦を建造することとなった。

設計は、鵜来型海防艦とほぼ同時期の1943年3月頃に開始されている。機関は、生産が比較的容易な方であった艦本式23号乙型ディーゼルを搭載した。本艦級ではこれを2基搭載したが、合計出力が1,900馬力しかないために、最高速度は鵜来型より低下、16.5ノットとなった。ただし、対潜兵装は充実しており爆雷搭載量も120個と多い。ただ小型化により、居住性が著しく低下した。

艦の名称は一番艦が第一号海防艦と命名され、その後は奇数番号が付けられている(偶数番号は丁型海防艦へ付けられた)。艦政本部監督の下、三菱重工業および日本鋼管を中心に建造が進められ、のちに更なる増産のため、新潟鉄工所などの中堅メーカーにまで建造が委託された。とくに日本鋼管は、艦政本部4部員の遠山光一海軍技術中佐(戦後、日本鋼管副社長)、5部員の魚住順治海軍少佐(戦後、海上自衛隊海将、日本鋼管顧問)、日本鋼管鶴見造船所技師の石井利雄海軍中尉の尽力で、海防艦の量産能力や品質面で他の造船所を上回る多大な成果を挙げており、丙型海防艦は艦政本部の意向により日本鋼管に大量の建造が発注された。

一番艦は1943年9月に起工し、1944年2月には竣工している。133隻の建造計画が立てられたが、53隻が戦争中に完成し、26隻を喪失。戦後に復員輸送用に3隻が完成している。戦後、掃海艦や特別輸送艦の指定を受けた各艦は「海第何号」と改称のうえ各々の任務に従事した[4]
戦果

1944年(昭和19年)10月30日
都井岬沖で海防艦第29号、第33号及び第22号がアメリカの潜水艦SS-182 サーモンに損傷を与えた[5]

1944年(昭和19年)11月8日 ミンドロ島沖で海防艦第19号が駆逐艦時雨海防艦千振とともにアメリカの潜水艦SS-215グロウラーを沈めたと推測される[6]

1945年(昭和20年)3月28日 南西諸島沖で海防艦第33号及び第59号が同御蔵とともにアメリカの潜水艦SS-237 トリガーを沈めたと推測される[6]

1945年(昭和20年6月19日) 富山湾で海防艦第63号第75号、第207号、第158号及び同沖縄がアメリカの潜水艦SS-223 ボーンフィッシュを沈めたと推測される[6][7]

同型艦 爆弾が命中した瞬間の1号海防艦。その後、沈没。

艦名 - 竣工日(建造所) - 喪失日、原因(場所)、もしくは戦後の様子など

第1号 - 1944年2月29日竣工(三菱神戸
1945年4月6日、ホモ03船団護衛中、南支那海廈門沖にて134号とともにB-25と交戦。撃沈される。この時アメリカ軍により漂流する乗組員らに機銃掃射が浴びせられ、救助された生存者も収容先の病院にて負傷により全員死亡。

第3号 - 1944年2月29日竣工(三菱神戸) - 1945年1月9日航空機による攻撃(基隆北西)。


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