干支
1
甲子2
乙丑3
丙寅4
丁卯5
戊辰6
己巳7
庚午8
辛未9
壬申10
癸酉
11
甲戌12
乙亥13
丙子14
丁丑15
戊寅16
己卯17
庚辰18
辛巳19
壬午20
癸未
21
甲申22
乙酉23
丙戌24
丁亥25
戊子26
己丑27
庚寅28
辛卯29
壬辰30
癸巳
31
甲午32
乙未33
丙申34
丁酉35
戊戌36
己亥37
庚子38
辛丑39
壬寅40
癸卯
41
甲辰42
乙巳43
丙午
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丙午(ひのえうま、へいご)は、干支の1つ。
干支の組み合わせの43番目で、前は乙巳、次は丁未である。陰陽五行では、十干の丙は陽の火、十二支の午は陽の火で、比和である。 丙午は干・支ともに火性である。 丙午の年1千年紀2千年紀3千年紀 「丙午(ひのえうま)年の生まれの女性は気性が激しく、夫の命を縮める」という迷信がある。これは、江戸時代の初期の「丙午の年には火災が多い」という迷信が、八百屋お七が丙午の生まれだとされたことから、女性の結婚に関する迷信に変化して広まって行ったとされる[1][2]。 江戸時代には人の年齢はすべて数え年であり[3]、もしも八百屋お七が寛文6年(1666年)の丙午生まれならば、放火し火あぶりにされた天和3年(1683年)には18歳になる計算となるが、井原西鶴などの各種の伝記では16歳となっている[4][5]。しかし、浄瑠璃作家紀海音が浄瑠璃「八百やお七」でお七を丙午生まれとし、それに影響された為長太郎兵衛らの『潤色江戸紫』がそれを引き継ぎ、また馬場文耕はその著作『近世江都著聞集』で谷中感応寺にお七が延宝4年(1676年)に掛けた額が11歳としたことが、生年を寛文6年(1666年)とする根拠となった。 紀海音は演劇界に強い影響力を持ち、文耕の近世江都著聞集も現代では否定されているものの長く実説(実話)とされてきた物語で有り、お七の丙午説はこのあたりから生じていると考えられている[6]。 明治時代以降もこの迷信は続き、1906年(明治39年)の丙午では、前年より出生数が約4%減少した。当時の新聞には元日に産まれた女児の将来を案じる記事がある[7]ほか、生まれた男児の出生届を前後の年にずらして届け出ることもあったという[8]。 この1906年生まれの女性が結婚適齢期となる1920年代前半、特に1924年(大正13年)から1926年(大正15年/昭和元年)には、縁談の破談や婚期が遅れる悲観、家族の心無い言葉などが理由である女性の自殺の報道などが相次ぎ[7]、迷信を否定する談話や映画『丙午の女』(石巻良夫:監督、サクラプロダクション)[7]が製作されるなど、丙午生まれの迷信が女性の結婚に影響したことが伺われる[9]。夏目漱石は1907年に発表した小説『虞美人草』において、主人公の男を惑わす悪女、藤尾を「藤尾は丙午である」[10]と表現している。 この年に生まれた小説家坂口安吾は、本名は丙午を意味する炳五という名を付けられ、親類から「男に生まれて良かった」と言われたという話を文章に残している。坂口は、1954年の随筆でこの迷信はなかなか無くならないだろうと予言し[11]、実際1966年もその通りになった。
丙午の年
46年
106年
166年
226年
286年
346年
406年
466年
526年
586年
646年
706年
766年
826年
886年
946年
1006年
1066年
1126年
1186年
1246年
1306年
1366年
1426年
1486年
1546年
1606年
1666年
1726年
1786年
1846年
1906年
1966年
2026年
2086年
2146年
2206年
2266年
2326年
2386年
2446年
2506年
2566年
2626年
2686年
2746年
2806年
2866年
2926年
2986年
丙午生まれの迷信
由来
1906年
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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