同名のアルバムについては「世良公則&ツイスト (アルバム)」をご覧ください。
ツイスト
別名世良公則&ツイスト
出身地 日本
ジャンルロック
活動期間1977年 - 1981年
1993年
※一時的な再結成に関しては#再結成を参照。
レーベルキャニオン・レコード
AARD-VARK
(1977年 - 1981年)
MOON RECORDS
(1993年)
事務所ヤマハ音楽振興会
(1977年 - 1980年)
MRT
(1980年 - 1981年)
メンバー世良公則(ボーカル・ギター)
ふとがね金太(ドラムス)
鮫島秀樹(ベース)
神本宗幸
ツイストは、世良公則を中心に結成された日本のロックバンド[1]。ロックをメジャーにしたロックバンドである[出典 1]。 ローリング・ストーンズのような音楽を演奏するならブラック・ミュージックを理解しておいた方が良いと思い、メンバー全員でサム・クックの「Twistin' the Night Away」を聴いていると「Twisting' Twisting'」と歌っており、「twist=ひねくれ」でもあるのでバンド名を「Twist」にしようと全員で決めたと世良は述べている[出典 2]。 前身バンドは世良が地元・広島県福山市の高校2年のとき加入したFBIバンドである[出典 3]。当時はビートルズやディープ・パープルのカバーをするバンドが多かったが、FBIバンドはローリング・ストーンズやフェイセズを主にカバーし[出典 4]、ブルースを志向していたため[13]、当時ブルースが盛んだった大阪にメンバー全員で進学[出典 5]。在学中に音楽コンテストの関係者から「ボーカルがヘタ」との指摘を受けたことから[出典 6]、それまでベースの担当だった世良がボーカルに交代した[出典 7]。今日のようにカラオケもなく、歌う場も限られ、世良はそれまでは自分が歌がうまいとは気付かなかったという[3]。世良たちが大学4年のとき、世良が正式にボーカルに専念した際にバンド名を"ツイストに変更した[4]。 大学卒業が迫り、他のメンバーは就職先を決め[17]、退路を断ってプロを目指したのは世良だけ[出典 8]。1977年、世良にとってはバンド解散のけじめとして、世良以外のメンバーにとっては、学生バンドの思い出作りとして[出典 9]、ヤマハポピュラーソングコンテストに出場[出典 10]。10月、「あんたのバラード」がポプコン本選会でグランプリを獲得[出典 11]。世良作による同曲は、当時大阪の若者の間で流行っていたブルースをベースにすさんだ恋愛を唄ったもの[20]。フォーク/ニューミュージック系シンガーが多かったポプコンでロックバンドがグランプリを獲るのは初めてのことで[出典 12]、一つの事件だった[出典 13]。世良公則&ツイストのグランプリ以降、ロック系の楽曲が増えた[出典 14]。世良公則&ツイストがこの後、大きな人気を得たことで、ポプコンの名が世間に知らしめられ[25]、ポプコンはスターの登竜門として華々しくなっていった[出典 15]。11月の第8回世界歌謡祭でもグランプリを獲得[出典 16]、12日後の11月25日にキャニオン・レコード(現ポニーキャニオン)/AARD-VARKレーベルからシングル盤「あんたのバラード」を発売した[4]。それは旧ツイストのメンバーによる世界歌謡祭で演奏したライブ音源である[出典 17]。このような経緯から世良自身は「バンドとしての愛着は(旧)ツイストの方にあった」と述べている[14]。世良と神本宗幸以外のメンバーがプロとして活動することを拒否したため、大学のバンド仲間で、別バンドに所属しているプロ志向の仲間達を加入させ、同月「世良公則&ツイスト」を結成[1]。その際、新メンバーたちが「『あんたのバラード』は世良が作った曲だし、世良の名前を残そう」と言ってくれたため、世良がその好意を受け取り「世良公則&ツイスト」とバンド名を変更した[11]。日本でロックがまだ浸透していなかった時代[出典 18]、一般レベルでは「ロック=不良」と単純化されて受けとめられていた[4]。世良は、家族や周囲から「ロックで食べていくことはできない。無謀だ」と口々に言われた[5]。「演歌や歌謡曲、フォークだけが音楽じゃないということを証明したい」「ロックを歌って認められたい」という意地だけで世良はプロとして生きる道を選んだ[5]。 「夜のヒットスタジオ」出演後、ヤマハのプロデューサーから勧誘を受け[14]、1978年2月に上京し正式にプロデビューとなった[出典 19]。
バンド名の由来
経歴
アマチュア期
世良公則&ツイスト期
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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