「世紀末ウィーン」(せいきまつウィーン)とは、19世紀末、史上まれにみる文化の爛熟を示したオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーン、およびそこで展開された多様な文化事象の総称である[3][4][5]。広義には、20世紀世界に大きな影響を与えた政治的・経済的諸事象や学芸における諸潮流を含んで称する。文化事象に限定した表現としては「世紀末のウィーン文化」「ウィーンの世紀末文化」などがある。
なお、この時代について文学者ヘルマン・ブロッホは、随筆『ホフマンスタールとその時代』(1947年 - 1948年)のなかで、ハプスブルク帝国の末期に当たる1848年から1918年までの時期、ことにその間のウェーンを「陽気の黙示録(ドイツ語: frohlichen Apokalypse)」と形容している[6]。「世紀末ウィーン」という場合、このように広くオーストリア=ハンガリー二重帝国が終焉を迎える1918年あたりまでを含むことも多いが、その場合、「世紀転換期のウィーン」「ウィーン近代」の名で言い換えられることも少なくない。そして、「ウィーン近代」「近代ウィーン」「近代のウィーン」などの時代名称を用いた場合、その終わりは、ファシズム体制での1934年のウィーン市の自治権喪失や1938年のアンシュルス(ナチス・ドイツによるオーストリア併合)とされることが多い[7][8]。
概略グスタフ・クリムト 『ダナエ』1907-08年
世紀末ウィーン文化の現出は、一般に、帝国(二重君主国)の政治面における混乱と凋落により、人々の関心が文化面に向かった結果であるとされている[9][注釈 1]。また、「世紀末ウィーン」の文化事象としての特質や傾向は、当時のウィーンの人々がもっていたコスモポリタン的な雰囲気や環境と密接なかかわりをもっていたとされており[10][5]、ここには後述するように皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830年 - 1916年)の意向もおおいに反映していた[11]。
この文化に特徴的なこととして、キリスト教的な諸価値に対する文化的反抗としての性格が指摘され、その反抗は時に自由主義思潮にも向けられた[12]。ウィーンではすでに1870年代前半、哲学者フリードリヒ・ニーチェの『悲劇の誕生』(1872年)に刺激を受けた人びとがサークル活動を立ち上げ、合理的な人間像にたいして感情や情動といったディオニュソス的なものを重視する立場が示されていた[12]。アルマ・マーラー
1890年代にあっては、ヘルマン・バール、フーゴ・フォン・ホーフマンスタール、アルトゥル・シュニッツラーといった文学者たちが、文芸サークル「青年ウィーン(英語版)」に集まり、耽美主義の立場から人間の繊細な内面的感情の発露を印象主義的に表現した[12]。