世紀末ウィーン
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世紀末ウィーンの芸術家たちが集うカフェ・グリーンシュタイドル(ドイツ語版)(1896年、ラインハルト・フェルケル画) カフェ・グリーンシュタイドルは1847年に開店し、青年ウィーン派の詩人や作家が集まった[1]。道路拡張工事のため1897年に閉店するが[1]、ここの常連たちはいっせいにカフェ・ツェントラール(ドイツ語版)にうつったという[2]リングシュトラーセと帝国議会(1900年前後)

「世紀末ウィーン」(せいきまつウィーン)とは、19世紀末、史上まれにみる文化の爛熟を示したオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーン、およびそこで展開された多様な文化事象の総称である[3][4][5]。広義には、20世紀世界に大きな影響を与えた政治的・経済的諸事象や学芸における諸潮流を含んで称する。文化事象に限定した表現としては「世紀末のウィーン文化」「ウィーンの世紀末文化」などがある。

なお、この時代について文学者ヘルマン・ブロッホは、随筆『ホフマンスタールとその時代』(1947年 - 1948年)のなかで、ハプスブルク帝国の末期に当たる1848年から1918年までの時期、ことにその間のウェーンを「陽気の黙示録(ドイツ語: frohlichen Apokalypse)」と形容している[6]。「世紀末ウィーン」という場合、このように広くオーストリア=ハンガリー二重帝国が終焉を迎える1918年あたりまでを含むことも多いが、その場合、「世紀転換期のウィーン」「ウィーン近代」の名で言い換えられることも少なくない。そして、「ウィーン近代」「近代ウィーン」「近代のウィーン」などの時代名称を用いた場合、その終わりは、ファシズム体制での1934年のウィーン市の自治権喪失や1938年のアンシュルスナチス・ドイツによるオーストリア併合)とされることが多い[7][8]
概略グスタフ・クリムトダナエ』1907-08年

世紀末ウィーン文化の現出は、一般に、帝国(二重君主国)の政治面における混乱と凋落により、人々の関心が文化面に向かった結果であるとされている[9][注釈 1]。また、「世紀末ウィーン」の文化事象としての特質や傾向は、当時のウィーンの人々がもっていたコスモポリタン的な雰囲気や環境と密接なかかわりをもっていたとされており[10][5]、ここには後述するように皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830年 - 1916年)の意向もおおいに反映していた[11]

この文化に特徴的なこととして、キリスト教的な諸価値に対する文化的反抗としての性格が指摘され、その反抗は時に自由主義思潮にも向けられた[12]。ウィーンではすでに1870年代前半、哲学者フリードリヒ・ニーチェの『悲劇の誕生』(1872年)に刺激を受けた人びとがサークル活動を立ち上げ、合理的な人間像にたいして感情や情動といったディオニュソス的なものを重視する立場が示されていた[12]アルマ・マーラー

1890年代にあっては、ヘルマン・バールフーゴ・フォン・ホーフマンスタールアルトゥル・シュニッツラーといった文学者たちが、文芸サークル「青年ウィーン(英語版)」に集まり、耽美主義の立場から人間の繊細な内面的感情の発露を印象主義的に表現した[12]。また、作曲家であるグスタフ・マーラーの音楽もこうした流れのなかに含まれる[12]。なお、マーラーの妻であったアルマ・マーラーは美貌と華麗な男性遍歴で知られるミューズ(美神)であり、親子ほども年齢の離れたグスタフ・マーラーと死別したのちも建築家ヴァルター・グロピウスと結婚し、彼と離婚後は音楽家フランツ・ヴェルフェルとも結婚した[13]。アルマの回想録によれば、彼女に最初に愛を教えたのは画家のグスタフ・クリムトであったという[13]。彼女は「天才を見抜く天才」であり、天才的な文学者や芸術家たちと親しく交際し、画家オスカー・ココシュカとも深い仲になった[14]

1900年代にあっては、政治や社会とのつながりを断ち切る傾向の強い「青年ウィーン」に反発し、批評家のカール・クラウス、絵画のグスタフ・クリムト、エゴン・シーレ、音楽のアルノルト・シェーンベルクウィーン工房ユーゲントシュティール(青年スタイル)の活動に反発した建築家アドルフ・ロースの活動が顕著である[12]。いずれにしても、こうした世紀末文化の多くは都市のカフェサロンを中心とする知識人のネットワークのもとに展開していったのであり、最底辺の都市民や周辺農村部への関心は概してうすかった[12]

世紀末のウィーンでは、多民族国家の首都としてのコスモポリタン性、文化の多層性に加えてヘルマン・ブロッホが「価値の真空」と呼んだ、あらゆる価値や尺度が相対化される、一種アナーキーな時代状況のなかで、既成概念にとらわれない自由な発想から様々な知的創造が営まれ、多様な思潮が新しく生まれた[5]

この文化においては、特に文学・音楽の分野を中心にユダヤ系の人々の活躍がめざましい[5][10]シュテファン・ツヴァイクは、『昨日の世界』(1942年)のなかで「世界が19世紀のウィーン文化として讃えたものの10分の9は、ウィーンのユダヤ人によって奨励され、養われ、さらに自己創造されえた文化であった」と述懐している[10]。しかし、この時代のウィーンは反ユダヤ主義を掲げたキリスト教社会運動のカール・ルエーガーが1897年から1910年までウィーン市長を務めた時代にあたっており[15]、国粋主義者ゲオルク・フォン・シェーネラーらの反ユダヤ主義的言説も活発になされた[15]。一方、ウィーン在住の新聞人テオドール・ヘルツルは『ユダヤ人国家(英語版)』を1896年に刊行してユダヤ人による、ユダヤ人のための国家を唱え、ウィーンを拠点にシオニズムの運動を開始した[16]
世界都市ウィーンの成り立ち「ウィンドボナ」、「ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)」、および「ウィーンの歴史」も参照帝国の民族分布(1911年)


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