世界金融危機_(2007年-2010年)
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2009年の実質GDP成長率。茶色は景気後退の地域を表す。

世界金融危機(せかいきんゆうきき、: Global Financial Crisis)とは、2007年9月から顕在化したサブプライム住宅ローン危機を発端としたリーマン・ショックと、それに連鎖した一連の国際的な金融危機である。これが引き金となり、グレート・リセッションがもたらされた。年表については「サブプライム住宅ローン危機の年表」を参照

2007年の時点では不動産バブルの崩壊が問題とされていたが、バブル崩壊の影響で銀行や基金が破綻をしたため金融機関が問題とされ、さらに2008年には金融システム全体の問題に対処しなければならなくなった。欧米を中心に世界各地へ連鎖的に広がり、その規模と速度は1930年代の世界恐慌を上回った[1][2]

最も深刻だった2008年第2四半期から2009年第1四半期には、世界の資本移動の90%が消滅し、富裕国の資本移動は17兆ドルから1.5兆ドルへと減少した。貿易にも影響し、世界貿易機関(WTO)が統計を集めている104カ国の全てで輸出入が減少した。2009年第2四半期の国内総生産(GDP)は、国際通貨基金(IMF)が統計を集めている60カ国のうち52カ国で縮小した。全世界の失業者は2700万人から4000万人に達したといわれる[3]。2009年時点の銀行の損失推計はアメリカ1兆ドル、ユーロ圏8000億ドル、イギリスは6000億ドルだった。当時のイギリスのGDPはユーロ圏の23%相当でありながら、金融センターであったため損失が多額となった[4]。.mw-parser-output .toclimit-2 .toclevel-1 ul,.mw-parser-output .toclimit-3 .toclevel-2 ul,.mw-parser-output .toclimit-4 .toclevel-3 ul,.mw-parser-output .toclimit-5 .toclevel-4 ul,.mw-parser-output .toclimit-6 .toclevel-5 ul,.mw-parser-output .toclimit-7 .toclevel-6 ul{display:none}
概要2007年9月15日、サブプライム住宅ローン危機による取り付け騒ぎイギリスバーミンガムノーザン・ロック銀行の支店。
影響

危機への対策によって2009年にはアメリカでは景気回復が起きたが、経済格差が拡大した。ヨーロッパでは金融危機後に銀行の資本増強が進まなかったため、2010年に国債がもとでユーロ危機が起きた。金融危機対策やIMF支援の条件として緊縮財政を進めた各国では、国内で経済的困窮や社会不安を招いた。世界各地で抗議活動が起き、政権交代や国際機関からの離脱、地域紛争の発端にもなった。「ウォール街を占拠せよ」と呼ばれた抗議デモは、同様の活動が900以上の都市で開催された。イギリスでは国民投票によって欧州連合離脱が決定した。ウクライナとロシアの間ではウクライナ紛争が起きた[5][6]
対策

各国は従来の枠組みを越えて協調した。G20では、それまで財務相・中央銀行総裁会議を開催していたが、さらに首脳陣の会合として2008年11月にG20サミットが始まった。中央銀行ではアメリカの連邦準備制度(FRB)を中心として通貨スワップ協定が拡充された。国際通貨基金(IMF)は2008年から求めに応じて支援を行い、さらに融資拡充をした。それまでの金融規制の不備が明らかになり、バーゼル銀行監督委員会では銀行の国際業務の規制が進められた[7][6][8][9]。会計監査制度も危機の原因になったとして批判を受け、会計基準や監査基準も変更された[10][11]。当時は「大きすぎて潰せない」という言葉が象徴するように大手金融機関の救済が優先されており、住宅ローンの債務者の救済が不十分だった[12]
原因・対策の研究

金融危機の原因や、対策の評価についての研究が続いている。危機の発生や拡大には、住宅ローンの証券化、低金利政策、シャドー・バンキング・システムなどが関わっていた。最大の原因は住宅投資の減少であり、そのもとをたどると住宅ローンに投資した人々の債務増加にいたる。特にサブプライム・ローンでは、返済能力を無視した貸付が以前から問題となっており、貸し倒れが増えたことで債務損失が増幅し、バブルが崩壊した[13][14]。金融危機の当初は、経済学者や政策立案者は債務者よりも銀行の救済を優先していたが、その後の研究では家計債務(特に住宅ローン債務)を減免した方が金融危機の回避に役立ったというデータが集まっている[12]
背景
証券化上段よりNASDAQ[15]ダウ平均株価[16]ローソク足(月足)、フェデラル・ファンド金利誘導目標[17][18](赤)、米国債10年物利回り[17](青)、JPY/USD[17](黄緑)、EUR/USD[17](紫)の月末値推移(1999年1月?2003年12月)

1970年代のアメリカから、住宅ローンの証券化が始まった。これは地域金融の弱点である各地域のリスクを補うために考えられ、国策会社である政府支援機関(GSE)によって進められた。地方銀行は地域のリスクから守るために住宅ローンを証券化してGSEに売った。GSEは証券化された住宅ローンを買うために、プールした住宅ローンを担保にして債券を売った。これが不動産担保証券(MBS)であり、GSEに多大な利益をもたらした。GSEの発行ではないプライベート・ラベルのMBSも1990年代に急増し、質の低いローンを証券化する方法としてトランチング(英語版)が考案された。トランチングとは、住宅ローンを細分化し、リスクが異なる債券に分けてローンに対する優先順位を定める方法を指す[注釈 1][20]。トランチングが繰り返されて大量のMBSが作られ、安全な証券として投資家に販売された。投資家はリスクが低いと考え、格付け機関も保証していたが、実際には質が低くリスクの高い住宅ローンから作られていた[21]
低金利政策

2000年にインターネット・バブルが崩壊し、IT・情報技術関連企業の上場が多いNASDAQ市場は暴落して、2001年第2四半期からアメリカのGDPが3四半期連続のマイナス成長となった[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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