世界分割
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デマルカシオン(スペイン語: demarcacion)とは、「分界」(「境界」「区分」[1])を意味するスペイン語

ここでは、境界策定の取り決めとしての分界線(スペイン語: Linea de demarcacion、ポルトガル語: Linha de demarcacao、英語: demarcation line)の中でも、大航海時代スペインポルトガルイベリア両国の取り決め、分界線を設定することで非キリスト教世界における支配領域をあらかじめ分配するという概念(世界分割)や、分界線によって分配された2つの領域[2]や分界線そのものについて述べる[3]

大西洋に引かれた世界分割の境界線は当初教皇子午線と呼ばれたが、これに対し、その正反対の位置(東アジア付近)にあるもう1つの境界線は「対蹠分界線」として議論された[4]
分界の起源と取り決め

1972年9月の第1回ポルトガル・スペイン海外史学会に寄せられた論文では、分界の起源は再征服運動(レコンキスタ)の2国間条約に起源を持つ「フロンティア」の一種としている[2]。12世紀半ば以降、ムスリム支配下の土地に線引きをし、その土地に対する権利を分けあうという条約がイベリア半島でたびたび締結されていた。しかし12世紀から14世紀におけるカスティーリャ王国アラゴン王国両国の未征服地分配の取り決めに、レコンキスタの一角であったポルトガルは排除されていた。アラゴン王国は13世紀半ばのレコンキスタ完了から地中海帝国へ進んだが、15世紀には北西アフリカと大西洋諸島でカスティーリャ王国とポルトガルの間で軋轢が生じ、その利害調整が分界の契機となった[2]

ローマ教皇から領土拡大の正当性を与えられることで、スペイン・ポルトガル両国は国益を得て、ローマ教皇庁はキリスト教圏の拡大を果たした。イベリア両国には武力をともなった海外への進出を正当化するための精神的支援と教皇の権威が必要で、教皇庁としてもカトリック教圏を拡大するために両国の力が必要であったため、両者の利害は一致していた[5]。そして、イベリア両王国の世界分割を正当化し、海外進出と植民地支配の根拠となったのが、教皇勅書布教保護権 (Patronato Real) であった。

布教保護権により両国の政府と国王は、植民地の牧会布教、および教会関係施設の設立と運営の義務を負うと同時に、司教と宣教師の人選の権限を付与された[6][7]。両国王室は、キリスト教の布教を援助すると同時に、「布教地」の保護者となることでその統治の正当性を得た[7]

そしてローマ教皇が与えた教皇勅書は、海外で発見した土地を「征服に属する地域」であると見なし、その地域の航海、貿易、布教の独占権を認め、領有を正式に承認していた[8]。現代のような国際法の概念も理論も未成熟であった大航海時代には、「地上における神の代理人」である教皇の決定は神の意志として全キリスト教圏の国々と王たちを拘束し[9]、教皇勅書は一種の国際法的な意味と国際的拘束力を持っていた[5][7]。これはキリスト教圏のヨーロッパにとって未発見の土地や回復(レコンキスタ)の理念がおよばない土地の征服権を特定の君公に「贈与」できるという「教皇至上主義(ウルトラモンタニズム)」に基づいていた[10]

「発見」が「領有」の法源(法の源泉)になるという、後のスコラ学者たちの論理は、このキリスト教圏の秩序の構造に発していた[9]
教皇勅書と条約西インド諸島

ポルトガルは1415年セウタを征服した後、アフリカ西沿岸を南下して新たな土地を発見するたびにローマ教皇から「征服に属する地域」であることを承認する勅書 (Bulla) が与えられた。ポルトガルの海外進出が南下する形で行なわれたので、教皇勅書による承認は緯線を基準として更新されていったが、1492年にスペインが南北アメリカ西インド諸島)を発見したことから、緯線を基準とした南北の分割ではなく、経線を基準にした東西の分割承認が必要となった[8][9][11]アゾレス諸島

1454年1月8日にニコラウス5世アフォンソ5世に与えた「Romanus pontifex」[注釈 1]1456年3月13日にカリストゥス3世エンリケ航海王子キリスト騎士団に与えた勅書 (Inter caetera) [注釈 2]、そしてそれらを一部修正した1479年9月4日のアルカソヴァス条約(英語版)が分界の直接の起源となった[10]。この条約でカナリア諸島はスペインが、その他の大西洋諸島と「カナリア諸島から下(南)へギネアに向けて」すでに発見された、またはこれから発見される土地と島嶼をポルトガルが確保した[10][12][13]ヴェルデ岬半島

1481年6月21日に、ポルトガルは、アルカソヴァス条約の追認と先行勅書群の確認のための勅書 (Aeterni regis、永遠の王) を教皇シクストゥス4世から引き出し[9]1488年にはバルトロメウ・ディアスが喜望峰を回航してインド洋に到達した[10]

1493年クリストファー・コロンブスの航海を機にスペインが海外植民地の獲得に本格的に乗り出し、それがきっかけとなってアルカソヴァス条約で決められた境界に関する問題が発生[14]。ポルトガルは自国の支配領域に排他性を持たせるため教皇勅書を利用した[5]。ローマ教皇アレクサンデル6世はスペインに向け、5月4日付の教皇勅書インテル・カエテラ (inter caetera) およびエクジミナエ・デヴォティオニス (Eximinae devotionis) を発給[注釈 3][16]。この勅書によって、アゾレス諸島ヴェルデ岬諸島の西100レグア[注釈 4]の地点を通る経線より、東側をポルトガルが、西側をスペインがそれぞれ「征服に属する地域」と定める教皇子午線が定められた[8][10][12][17][18]


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