世界ボクシング評議会
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世界ボクシング評議会
World Boxing Council略称WBC
設立
1963年
設立者ルイス・スポタ(英語版)(初代会長)
種類ボクシング組織
本部 メキシコ
メキシコシティ
会長マウリシオ・スライマン
ウェブサイトhttps://www.wbcboxing.com/
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WBCのチャンピオンベルト

世界ボクシング評議会(せかいボクシングひょうぎかい、: World Boxing Council, WBC)は、プロボクシングの世界王座認定団体の一つ。本部はメキシコメキシコシティにある。
概要

元々は世界ボクシング協会(WBA)、ヨーロッパボクシング連合(EBU)、英国ボクシング管理委員会(BBBofC)、ラテンアメリカプロボクシング連合(LAPBU)、東洋ボクシング連盟(OBF)が対等の立場で討議する機関として1963年2月14日に設立[1][2]。その後、分立志向を強め、1966年8月27日にWBAとは別に、独自のルールと世界ランキングを発表して、完全に分裂した[3][4][5]。主要4団体中、加盟国が最も多いプロボクシング世界王者認定団体。4ラウンドごとにポイント採点を公表する。フリーノックダウン制(※何度ダウンしても10カウント以内に立ち上がってファイティングポーズを示し、レフェリーが危険が無いと判断すれば試合続行)を他団体に先駆けて採用している(2023年現在はWBA以外で採用)。他団体がランキング15位までしか作成していないのに対し40位まで名簿作成している。
歴史
設立

1963年2月14日世界ボクシング協会(WBA)、ヨーロッパボクシング連合(EBU)、英国ボクシング管理委員会(BBBofC)、ラテンアメリカプロボクシング連合(LAPBU)、東洋ボクシング連盟(OBF)が対等の立場で討議する機関として設立[1][2]。初代会長ルイス・スポタ(英語版)(メキシコ・ボクシングコミッショナー)。

WBAからの脱退

1965年10月19日、WBC会長国メキシコがWBAを脱退する。カルロス・オルチスイスマエル・ラグナニノ・ベンベヌチサンドロ・マジンギの直接の再戦をWBAが許可したことに抗議。

1966年8月27日のWBC総会で、独自のルールと、初のWBC世界ランキングを発表して、WBAから完全に分裂した[3][4][5]

1968年8月28日フィリピンのボクシングコミッショナー、ハスティアノ・モンタノ・ジュニアが、当時のWBA内の議決権がアメリカ合衆国の州コミッションと、その他の国のコミッションが同じ一票であることを批判して、フィリピンのWBA脱退を宣言する。 その後、モンタノが同年9月に第2代WBC会長に就任して以降、世界王者のWBA、WBC分立が加速する。

世界タイトル戦15ラウンド制を明文化

1966年8月27日のWBC総会で、世界タイトル戦のラウンド数を、それまでは10ラウンド制、12ラウンド制、15ラウンド制のいずれでも可能であったところ、15ラウンド制だけに限定した。(世界ボクシング協会(WBA)よりも先に明文化した。)[3]

世界タイトル戦12ラウンド制を開始

1983年から世界タイトル戦のラウンド数を、それまでの15から12に短縮した(世界王座認定団体の中で最初に実施した)。

反アパルトヘイトによる、南アフリカ共和国関係者の除外

1987年頃からは反
アパルトヘイト色を強め、南アフリカ国籍の選手だけでなく、南アフリカで試合をしたすべての選手をランキングから除外した。リッキー・パーキーマイク・ウィーバーらがその犠牲となり、ジュニアライト級1位のマリオ・マルチネスは南アフリカの選手と対戦契約を結んだだけでランクから外された[6]

破産騒動

2003年グラシアノ・ロッシジャーニドイツ)から不当にライトヘビー級の世界王座を剥奪したとして、3100万ドル(約34億円)の損害賠償を命じられる。その後も支払い命令の無効を求めたが認められず、ロッシジャーニとの和解交渉も不調に終わる。日本の民事再生法に相当する連邦倒産法第11章の適用申請(後に取り下げ)。

2004年6月14日連邦倒産法第7章(会社清算)の適用を申請。組織の存続を念頭に置かない破産の手続きに入る。この際、ホセ・スライマン会長がWBCのウェブサイト上で声明を発表(後に破産手続き中止)。

2004年8月、和解が成立。この騒動は当時WBA以上と評判であるWBC権威の低下をもたらし、WBOなどが主要団体の一つになるきっかけになった。

ムエタイ部門の設立

ホセ・スライマン会長、副会長ゴーウィット・パッグディープーム(
タイ)とタイ・スポーツ局長サンティパープ・テーチャワーニットの間で“WBC MUAY THAI”の発足が報告され、2005年2月24日にムエタイの標準ルールに基づく運営をするなどの内容の覚書が作成され署名された。

2005年9月9日 - 香港で行われたムエタイの興業で、中国人散打選手、タイガー・チャン(張慶軍/中国)がマレック・“ザ・ジェット”・ボグスウィッツ(イギリス)を破りWBCの認定する最初のムエタイ王者(WBCムエタイインターナショナルヘビー級)になる。

女子王者認定

2005年6月7日 - 女子16階級の世界ランキングを10位まで発表。スーパーバンタム級ジャッキー・ナバメキシコ)がWBC初の女子世界王者に認定された。

2005年11月7日 - WBC女子世界ストロー級初代王座決定戦がタイで行われ、日本人女子プロボクサー菊地奈々子がノンマイ・ソーシリパン(タイ/同級3位)をTKO(7R 0:50)で下し同王座の初代王者になる。また、日本人女子プロボクサーによる初のWBC女子世界王座獲得となった。

WBCダイヤモンド王座創設

2009年8月に、「WBCダイヤモンド王座」(WBC Diamond Championship)の創設を発表。初のダイヤモンド王者となったマニー・パッキャオには、通常の世界王座のベルトをベースに、18カラットの金、861個のダイヤモンド、221個のエメラルド、6個のルビー、180個のスワロフスキー・クリスタル・ガラスなどの宝石が埋め込まれた特製のチャンピオンベルトが贈呈された。また、ベルトを覆う革にはフェラーリ社製のものが使われる。創設の際に行われた投票では、理事会の全員が賛成したという。翌9月には、メキシコシティのCorona Auditoriumで行われた記者会見で、WBC会長が実際に贈呈されるベルトを披露した[7]


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