世界の歴史
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「世界史」はこの項目へ転送されています。高等学校の教科については「世界史 (科目)」をご覧ください。

世界の歴史(せかいのれきし)では、太古に地球上に現れた人類が長い歴史を経て現代に至った経緯を、世界視点で、略述する。
概要「en:History of the world」を参照「人の移動の歴史」も参照
人類史のはじまり最古の人類、ルーシーの骨(複製)

人類(※)は、数百万年前にアフリカ大陸で誕生した、とされている。

約540万年前アフリカ大陸で、現在のところ最古の猿人とよばれるアウストラロピテクスが登場した。これが最初の人類とされている。東アフリカのタンザニアで、猿人の一種である、ジンジャントロプス(Zinjanthropus、en:Paranthropus boisei)の化石が発見された。

エチオピア北東部ハダール村付近では、318万年前のアウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人、en:Australopithecus afarensis)の化石骨が、1974年11月24日に発見された、「ルーシー」と名付けられた。(※)人類と他の動物、他の霊長類の区別は、今日さまざまな見解があるが、直立二足歩行が基準であるとの考えが有力である。それは、記録のない時代のことを文書で判断することはできないが、化石骨とその出土層位さえ与えられれば直立二足歩行の可能性は解剖学人類学の見地からの検討が可能となるのである。その年代は従来約400万年前といわれていたが、今日では約500万年前、学者によっては550万年前ないし600万年前の年代があたえられている。(※)現代の生物学では、地球上のすべての生物は原始生命体から進化したものと理解されており(進化論)、ヒトを含む霊長目も同様である。最初は海中にいた動物の一部が、やがて陸上で暮らすようになった、と考えられており、人類もその子孫だということになる。

200万年前から100万年前、アフリカ大陸の北側から、陸地づたいに、地中海東岸(英語版)あたりに生活の場を広げ、ユーラシアを西方(地中海北側を、ヨーロッパ方面)へ進む者と、東方(中央アジア、東アジア方面)へ進む者に分かれて広がっていった、と考えられている。

約50万年前、アジアには北京原人ジャワ原人などの原人がいたことが知られている。かれらの脳容量は猿人の約2倍(約1,000ミリリットル)あったと推定される。洞窟や河岸に住み、堅果の採集や狩猟を生業としていたことが知られ、礫石器や火の使用の痕跡も確認されている。

同じく約50万年には現在のヨーロッパあたりで、旧人類の一種のネアンデルタール人(※)が暮らしており、その骨の化石が多数発見されている。(年代は、31万5000年前から80万年以上前までの様々な時期が示されている)ネアンデルタール人の脳の容量は現世人類とほぼ同じかそれよりも大きく(1,300?1,600ミリリットル)、剥片石器の使用が認められる。地質学上、氷河時代にあたっていたため、をともなう住居に住んだり、毛皮衣服を着るなどの生活上の工夫がみられる。死者の埋葬もおこなわれており、たがいに協力しあって生活を営んでいたことが知られている。(※)長らく「ネアンデルタール人は現生人類にはつながっていない」などと考えられていたが、最近のDNA研究で、数十万年前から数万年前まで「現生人類」はネアンデルタール人たちとたびたび「交雑」していたことが判明している。つまりネアンデルタール人と現生人類は数十万年前から数万年前までたびたび子をつくり、そのDNAが、何度も何度も重層的に現生人類内で広がり、現在に至るまで脈々と残っている、ということであり、ネアンデルタール人も現代の人類の、まぎれもない「先祖」(の一部)なのである。現代のヨーロッパ人、アジア人、いずれのDNAにもネアンデルタール人のDNAが4?2%ほど含まれている、という[1](ヨーロッパ人のほうが多めに含んでいる、というデータを示している研究もある)。(一方、アフリカの地から出ずアフリカに留まった いわゆる「アフリカ人」のDNAにはネアンデルタール人のDNAはわずか0.3%ほどしか含まれていないという)
現生人類の誕生と拡散現生人類が「出アフリカ」をした後に移動した経路。(DNA研究などによる推定)

現生人類が登場するのは約30万年前のこととされる。ミトコンドリアDNAの分析では、現代人の共通祖先の分岐年代は14万3000年前±1万8000年であり、ヨーロッパとアジア人の共通祖先の分岐年代は、7万年前±1万3000年であると推定された[2]Y染色体ハプログループの分析結果からも古くに分岐したハプログループA (Y染色体)ハプログループB (Y染色体)がアフリカのみに見られることから、アフリカ単一起源説は疑いようのないものとなっている。

現生人類は長らくアフリカにとどまったが、7万年間に出アフリカを果たした。出アフリカ後、イラン付近を起点にして南ルート(イランからインド、オーストラリアへ)、北ルート(イランからアルタイ山脈付近へ)、西ルート(イランから中東・コーカサス山脈付近へ)の3ルートで拡散した[3][4]。すなわち南ルートをとった集団がオーストラロイド、北ルートがモンゴロイド、西ルートがコーカソイド、非出アフリカがネグロイドということになる。「人種#Y染色体・mtDNAハプログループと人種」を参照

化石人骨ではクロマニョン人が確認されている。クロマニョン人が描いたとされている壁画が、フランスのラスコーやスペインのアルタミラで発見された。なお、クロマニョン人は、現在のヨーロッパ人の祖先である。
古代文明と諸地域世界の成立.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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現生人類は、次第に、狩猟や採集などの獲得経済から、農耕、牧畜などの生産経済へと移行していった。その中でも、狩猟や採集が比較的困難な、砂漠及び乾燥帯などの地域かつ、農耕に必要な条件である、川が近くにある地域の人類が、いち早く集住をはじめ、そこで農耕や牧畜を行い、一定の食料を安定して生産できるように努めた。そしてそれが次第に文明へと進化して行った。日本の文明の発展が比較的遅れたのは、日本が森林や海など、食料を採集や狩猟で供給できる十分な環境があったため、集住や農耕をする必要性が比較的低かったためという説もある。
4大文明の誕生と盛衰

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そして、いち早く文明を築き、発展していったものが主に4つあると言われている。今のイランなどの場所に位置するメソポタミアナイル川近辺を中心に発展した古代エジプト、中国本土の中国文明、そしてインドパキスタンアフガニスタンインダス川周辺に位置するインダス文明。これらを総称して世界四大文明という。また、これにアメリカ大陸メソアメリカアンデス文明をくわえて、六大文明とすることもある。エジプト文明とメソポタミア文明をあわせて、オリエント文明と呼ぶこともある。オリエントとは「日ののぼるところ」及び「東方」を意味する。
メソポタミア文明

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メソポタミア文明は、ティグリス川流域やユーフラテス川流域、またはその間で発達した文明である。灌漑が発達したメソポタミア南部では、急激に人口が増え、数多くの大村落が成立し、それはやがて都市へと発展していった。

紀元前2700年頃までに、シュメールという民族がウルウルクなどの都市国家を形成し、神権政治を行った。また、楔形文字とよばれる文字も発明された。

しかし、セム語派アッカドが彼らを征服しメソポタミアを統一した。アッカドの王ナラム・シンは「四方世界の王」と称し、この言葉は「四天王」の語源となった。そして、時は進み今度はセム語系のアムル人が古バビロニア(バビロン第1王朝)を建て、バビロン第一王朝のハンムラビは「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラビ法典をつくった。

その後、その頃には珍しい鉄製の武器をはやくから使用していたインド・ヨーロッパ語族ヒッタイトが彼らを滅ぼし、アナトリア半島(現在のトルコ付近)に国家を建国した。また、バビロン第一王朝滅亡後のバビロニアにはカッシート人、その北にはミタンニ、そして後述のエジプト新王国も含めて諸王国が並立する複雑な政治状況が生じ、しばらく続いた。

この時代の過程で、太陰暦が誕生し、これに修正を加えた太陰太陽暦も誕生し、天文、数学など様々な学問が発達した。
エジプト文明

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エジプト文明はナイル川を中心として発展した文明である。エジプト文明は、エジプト古王国エジプト中王国、エジプト新王国、の3つの時代に分けられる。

エジプトでは、国家統一以前にノモスと呼ばれる地域の政治的まとまり(領土国家、領域国家)が複数存在した。

エジプトではメソポタミアよりもはやく統一国家が成立した。紀元前3000年にメネスがエジプトを統一し、古王国では、王はファラオと呼ばれた。また、ギーザにはピラミッドも誕生した。

中王国時代にはセム語系の戦士集団、ヒクソスシリアから侵入し、国内は一時混乱したが、新王国が起こって彼らを追放し、「エジプトのナポレオン」とも呼ばれるトトメス3世は、シリアとヌビアを征服したが、次第に衰退しアッシリアアケメネス朝の侵入を受けて滅亡した。

新王国時代には、ツタンカーメンが存在した。また、神聖文字(ヒエログリフ)を使用し、太陽暦が誕生した。
インダス文明

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インダス文明とは、インダス川流域で発展した文明のことであり、位置はインドよりも、どちらかと言えばパキスタン寄りである。

インダス文明はドラヴィダ人によって作られたとされる、インド最古の文明で、遺跡としては、モヘンジョダロハラッパーなどがある。インダス文字が作られたが、いまだ解読されていない。

また、この頃のインダス文明では、強大な権力を示す、神殿や王宮が発見されていない。

やがて、滅亡し、インド=ヨーロッパ語族のアーリヤ人が侵入し、パンジャーブに住み着いた。その後、ガンジス川に進出し、その後、今のカーストと呼ばれる身分制につながるヴァルナ制やジャーティも誕生した。また、これらの制度を否定して、仏陀釈迦)が仏教を、マハーヴィーラジャイナ教を開いた。
中国文明

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中国大陸には遼河文明黄河文明長江文明が起こった。

遼河文明からは大規模な竪穴建物や墳墓、祭壇などの神殿が発見されている[5]興隆窪文化の遺跡からは中国最古の龍を刻んだヒスイなどの玉製品が発見されている。また最古の遼寧式銅剣(琵琶形銅剣)や櫛目文土器などが出土している。

黄河文明では黄河の氾濫原で農業を開始し、やがて黄河の治水や灌漑を通じて政治権力の強化や都市の発達などを成し遂げていった。後の漢民族拡散の中心となる文明である[3][4]

長江文明は稲作の発祥となる文明である。初期段階より稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。
ユーラシアの交流圏

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アジア諸帝国の繁栄


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