世田谷代官屋敷
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世田谷代官屋敷
世田谷代官屋敷の表門
情報
所在地154-0017
東京都世田谷区世田谷1-29-18
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度38分29.0秒 東経139度38分51.6秒 / 北緯35.641389度 東経139.647667度 / 35.641389; 139.647667 (世田谷代官屋敷)座標: 北緯35度38分29.0秒 東経139度38分51.6秒 / 北緯35.641389度 東経139.647667度 / 35.641389; 139.647667 (世田谷代官屋敷)
文化財重要文化財
指定・登録等日1978年1月21日
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世田谷代官屋敷(せたがやだいかんやしき)は、彦根藩世田谷領の代官を世襲した大場家の私邸かつ役宅で、大場代官屋敷とも呼ばれる。現在の東京都世田谷区世田谷1丁目に置かれた。1952年昭和27年)に東京都指定史跡に、1978年(昭和53年)に大場家住宅主屋及び表門の二棟が重要文化財に指定された。
概要

大場家の屋敷は、はじめ元宿(世田谷区役所のあたり)にあったが、天正の初め(1575年)ごろに現在の場所に移された。現在の建物はその後、7代の盛政が1737年元文2年)に立て直したものである。1739年(元文4年)に盛政が代官になった際にその私邸が代官屋敷となったため、世田谷代官屋敷は公の陣屋ではない[1]

現在の敷地内には、後述する表門と主屋のほかに、お白洲の玉砂利が白洲跡として残され[2]、世田谷区名木百選に選定された樹高19メートル、幹周り2.85メートルのタブノキも立つ[3]
建物主屋

表門はボロ市の開かれる通称ボロ市通りに面して建つ。

主屋は約70坪で茅葺、寄棟造りである。1952年(昭和27年)11月3日、屋敷が東京都旧跡に指定される。1959年(昭和34年)2月21日、東京都史跡に指定替される。1967年(昭和42年)2月に解体復元工事に着手し、同年5月20日に竣工した。1978年(昭和53年)1月21日、主屋と表門が重要文化財に指定される。
主屋(寄棟造・茅葺・北面玄関)

桁行:17.33メートル(57.2尺)

梁間:11.03メートル(36.4尺)

面積:191.15平方メートル(57.84坪)

表門(長屋門・寄棟造・茅葺)

桁行:7.0メートル(23.1尺)

梁間:3.7メートル(12.2尺)

面積:25.9平方メートル(7.83坪)

屋敷の歴史

大場家の屋敷は元宿(元町:現在の世田谷4丁目、世田谷区役所のあたり)にあったが、大場信久とその嫡男房勝の時代、天正年間初頭に現在地に転居した[2]

大場家邸宅の普請記録の初見は、信久から数えて7代目の大場六兵衛盛政が建て替えた際の1737年(元文2年)である。盛政は彦根藩から米105俵を借用して邸宅の改築を行った[2]。盛政が代官に登用されると、1753年宝暦3年)には書院座敷を増築し、居住部分を改修した[2]1804年文化元年)には10代当主大場弥十郎景運が書院座敷を建て替えており、景運は1815年(文化12年)に内蔵を建てている[2]嘉永年間(1848年-1854年)には11代当主大場準之助景長が2階座敷を増築し、その際には名主詰所が設けられた[2]

1923年大正12年)には内蔵が建て替えられた[2]。近代には主屋内部の姿が次第に変化したが、1957年(昭和42年)には解体修理によって往時の姿に復元された[2]。書院座敷は敷地内の別の場所に移築されていたが、同1957年には埼玉県入間郡毛呂山町の「新しき村」に移築されている[2]
書院座敷

書院座敷は、大場弥十郎景運の建て替え(1804年)以前から、問屋屋敷の公用座敷として高役人の接待や宿泊上に必須だった。代官職となってからは奉公や法要などの公用が増加したため、いっそう重要となった。盛政が宝暦3年の再改築を企図した重要な要因のひとつとされている。元文2年には「座敷」と称されていたのが、宝暦3年には「書院座敷」と称しているあたりにも、その事情が推察される[4]
大場家

世田谷大場家は桓武平氏大庭景親の子孫と伝えられる。鎌倉時代、大場弥次郎房久が吉良家の家臣となり、武蔵国世田谷に移り住んだ[5]

大場家(本稿では「宗家」と呼称する)の初代大場越後守信久は、吉良四天王のひとりとして武名を上げたが、吉良家の没落(宗主である後北条家豊臣秀吉により滅亡させられたことに起因)を契機に土着、帰農することとなる[6]。1578年ころに当時の世田谷新宿に居を移した。当初は元宿(現在の世田谷4丁目)に居を構えていたが、楽市が認許されて以降、嫡男外記房勝と共に上宿(現在の上町)に移り、定住することとなった[7][8]

1633年寛永10年)、井伊家が世田谷領15ヶ村を領有することとなった際、信久の嫡孫盛長が15歳にして世田谷代官(初代)に任ぜられた[9]。盛長は20歳にて没し、代官職は同族の大場市之丞の家系(本稿では「傍家」と呼称する。)が継承する[10]。その後「宗家」大場家は、世田谷村名主や世田谷宿の問屋役を代々継ぎ、7代盛政が大破した住居・座敷を1737年と1751年の二度にわたり再建ないしは補修、現在に残る世田谷代官屋敷が完成した[11][12]

1739年(元文4年)、「傍家」4人目の大場市之丞が年貢未納(使い込みという説もある[13])の罪で罰せられ、田畑・家財没収、追放等の処分を受け[13]、「宗家」大場家の盛政が用賀村名主飯田兵兵衛とともに代官に登用された[14]。爾後1830年までの約90年間、「宗家」大場家が代官役を務めることとなった[15]

大場家10代目の当主大場弥十郎は1794年寛政6年)以降40年にわたり代官職を勤めたがその功績により、1830年文政13年)、一代限りとして士分に取り立てられ、彦根藩士となった。その義理の息子で11代目当主隼之助の代になると世襲が認められることとなった[6]。同じ敷地内に、世田谷区立郷土資料館がある。
参考画像

表門

主屋西側

白州通用門

白州跡


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