世尊寺家
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世尊寺家
1532年享禄5年)絶家)

本姓藤原北家伊尹流
家祖藤原行成
種別公家
出身地山城国
主な根拠地山城国
著名な人物藤原行成
建礼門院右京大夫
勾当内侍
凡例 / Category:日本の氏族

世尊寺家(せそんじけ)は、藤原北家から出た公家九条流の嫡流であった摂政藤原伊尹の孫行成を祖とする。

三跡」「四納言」として知られた初代・行成以降、代々入木道書道)の家系として知られ、その流派は世尊寺流として受け継がれた。目次

1 由来

2 歴史

3 歴代当主

4 系譜

5 脚注

6 参考文献

7 関連項目

由来

藤原行成が晩年母の里方の代明親王の邸宅だった桃園第[1]に隠棲し、邸宅内に世尊寺を建立、その子孫が代々そこを住居としたため「世尊寺」の家名が成立した。
歴史

初代藤原行成から17代を数えるが、世尊寺の家名で知られるのは世尊寺行能以後とされる。

行成の孫である藤原伊房までは、代々公卿の地位に昇っていたが、伊房が大宰権帥時代に起こしたとの密貿易事件によって失脚して以後は、四位もしくは五位止まりの中下級公家としての地位に止まり、入木道(書道)を家業・家学とすることで辛うじて公家社会に踏みとどまった。だが、それも摂関家から登場した法性寺流が流行して後白河法皇の保護を受けるとその地位も揺らぐことになる。

危機感を抱いた藤原伊行は現存する最古の書論書『夜鶴庭訓抄』を著して書道の家としての地位を主張するとともに、伊行及びその子孫は書道故実の集成と「世尊寺流」としての書道理論・書風の確立に努めた。こうした努力の甲斐があって、孫の行能の時代(鎌倉時代前期)には大嘗会などの重要な公事や摂関の進退に関わる上表文の作成に際しては「重代」の家である世尊寺家の当主清書を行う故実が確立され、また摂関家とのつながりを強めた行能が再び従三位に叙せされたことによって、堂上家としての地位を回復した。

以後 室町時代にかけて堂上家として続き、室町時代には正二位参議極官としたが、室町時代末期の17代目世尊寺行季薨去により絶家となった。

太平記』に新田義貞の妻として登場する勾当内侍は、世尊寺経尹の娘という[2]
歴代当主
藤原行成972年 - 1027年

藤原行経1012年 - 1050年

藤原伊房1030年 - 1096年

藤原定実1063年 - 1131年

藤原定信1088年 - 1156年

藤原伊行1139年? - 1175年?)

藤原伊経(? - 1227年

世尊寺行能1179年 - 1255年?)

世尊寺経朝(1215年 - 1276年

世尊寺経尹(1247年 - ?)

世尊寺行房(? - 1337年

世尊寺行尹1286年 - 1350年

世尊寺行忠(1312年 - 1381年

世尊寺行俊(? - 1407年

世尊寺行豊(? - 1453年

世尊寺行高1412年 - 1478年

世尊寺行季1476年 - 1532年) - 正二位参議



系譜
実線は実子、点線(縦)は
養子、点線(横)は婚姻関係。

藤原伊尹

                         
                        
義孝義懐光昭懐子


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