世宗_(朝鮮王)
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出典検索?: "世宗" 朝鮮王 ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年7月)
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「世宗大王」はこの項目へ転送されています。この人物を主人公とした小説、およびそれを原作とするテレビドラマについては「世宗大王 (小説)」を、大韓民国海軍の駆逐艦については「世宗大王 (駆逐艦)」をご覧ください。

世宗 李?
李朝
第4代国王
世宗の銅像
王朝李朝
在位期間1418年9月9日 - 1450年3月30日
都城漢陽
字元正
諡号荘憲英文睿武仁聖明孝大王
廟号世宗
生年洪武30年4月10日
1397年5月7日
没年景泰元年2月17日
1450年3月30日
太宗(三男)
元敬王后閔氏
王后・王配昭憲王后(青松沈氏)
妃嬪

令嬪姜氏

慎嬪金氏

恵嬪楊氏

尚寝宋氏

淑媛李氏

子女下記参照
陵墓英陵(世宗大王陵)
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世宗 (朝鮮王)
各種表記
ハングル:?? / ?? / ??
漢字:世宗 / 李? / 元正
発音:セジョン / イ・ド / ウォンジョン
日本語読み:せいそう、せそう / り とう / げんせい
ローマ字:Sejong / I Do / Won Jeong
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世宗(せいそう[1]、セジョン、せそう、??、1397年5月7日 - 1450年3月30日)は、李氏朝鮮の第4代国王である[2]。姓は李、名は?(?は衣へんに陶の)(とう[1]、ド、?)。即位前は忠寧(大)君(ちゅうねい(たい)くん、チュンニョン(デ)グン)と呼ばれていた。
生涯
即位

1397年、第3代国王太宗の第3王子として生まれる。母は元敬王后閔氏。1406年に成人すると忠寧大君(大君は王の嫡出子に与えられる職官)に封じられ、沈(シム、ちん)氏(後の正妃・昭憲王后)と結婚した。

健康問題を抱えた父の太宗には何度か譲位を行う意向があったが、外戚との確執や長男の譲寧大君の奔放な性格が問題となり、なかなか行われなかった。1418年、太宗は譲寧大君から世子(王太子)の資格を剥奪し、三男の世宗に譲位した。

世宗即位当初の4年間は、上王となった太宗が軍事権をはじめ政治の実権を握っていた。1422年に太宗が亡くなると、世宗の親政が始まることになる。
内政ハングル(訓民正音)

世宗は宮中に学問研究所として集賢殿を設置し[3]、ここに若く有望な儒学者や官奴、外国人らを採用してさまざまな特権を与えた。集賢殿は王の政策諮問機関として機能し、朝鮮の文化と文治主義を発展させる原動力になった。世宗は集賢殿の学士とともに広い分野に及ぶ編纂事業を主導し、儒学やさまざまな文化・技術を振興した(後述)。中国漢字の発音を上手く出来ない民のためとし、中国漢字の発音を正確に表記する目的で作った発音記号であるハングル訓民正音)の創製が知られている[2][4]。1425年には朝鮮通宝を鋳造し、貨幣経済の浸透を試みた。また、高麗以来の税法である踏験損実法を廃止し、1436年に貢法詳定所を設置して朝鮮の田税制度を定めた。1437年になると世宗自体の健康問題もあり、六曹直啓制(省庁を王が直接統括する制度)を議政府署事制(領議政・右議政・左議政の三議政が六曹と協議し、その結果を国王に上奏する方式)に変更し、王の国事の負担を軽くし、権力を分散させた。

当時は革新的な視点があり、政策を実施するのに民の賛否を問うために十数万人に一種の世論調査を実施したり、ノビ(奴婢)が妊娠すると、出産休暇を妻には130日、夫には30日を与えるように命じた。また能力があればノビ(奴婢)出身でも官職を与えたが、代表的な事例が?英實だ。

奴婢層と貢女数の拡大・明への事大主義

もちろん世宗も政策上批判はある。世宗の時代には官僚であれば末職さえ100人以上所有したほど奴婢の身分の者が多かった。そのため世宗の治世時期前から李王家と貴族は奴婢を300人以上所有してはいけないという法があった。しかし、世宗は婢と良民の男が結婚すれば間の子供は父親の身分に従って良民になれるようにしていた既存の法律を廃止した。さらに奴婢従母法(?????)という法により、父が両班で母が奴だった場合は子も奴婢になり、奴(父親)の所有者がその子の所有権を持つように定められた。この法律は父が誰でどの身分でも、二人の間の全ての子供は母の身分に従って奴婢になるようにした法律でもあった。朝鮮の少女たちを貢女として中国()に捧げるために『進献色』という機構を設置した上に、処女進献を避けるために民衆の間が幼い年齢で早婚させることが流行すると即座に王族など高位層を除いて民衆のみに早婚禁止を実施した、また中国から来た使臣が1?2か月かかる貢女を選び出す期間は半島全土に婚姻禁止令が下され選抜対象となった未婚女性は恐怖に震えた。太宗は「処女を隠した者、針灸を施した者、髪を切ったり薬を塗ったりした者等選抜から免れようとした者」を罰する号令も出し、世宗の時代も存続していた。朝鮮王朝実録には、世宗の治世が明に対する処女進献が最多と記録されている。また、朝鮮独自であった天に捧げる祭祀である天祭を自ら撤廃し、中国王朝に朝鮮を実質的に従属させる事大主義政策を展開したことも指摘されている[5][6][7][8]。また1431年、官婢が良人の男性との間で産んだ娘は妓生、息子は官奴になる法を施行した。そのため、片方が良人なら抜け出せた、奴婢身分の子息は下層身分に固定された。1437年には、国境地帯の兵士を慰安目的で、妓生を置くように命令し、妓生など下級身分層の人権より両班層の便宜のみを追求した。そのため、前近代的君主だったとの指摘がある[4]

ただし反論側では現代の観点から見れば残念な点はあるが、当時の観点から見ると当たり前だった身分制と明に対する事代、朝公貿易でむしろ安保、経済的利益を見た現実的な時代状況を勘案していない主張という反論もする。政策的物足りなさはあるかもしれないが、世宗の他の言行を見ると身分制や事代自体を絶対視する君主ではなかった。つまり、一般的な君主ならあまり扱わない問題でも、世宗がこれだけ無欠点君主であるだけ尊敬されれば、一種の反発心理でこのような反応も出ると推定することもある。これはどの国王でも普遍的人権概念が説得される近現代時代でない以上詳しく掘り下げれば指摘されるしかない問題だろう。
対外関係

日本関連

前期に倭寇の武力政策、後期には室町幕府と修好するなど友好策をとった[2]。日本との関係に関しては、当時朝鮮の沿岸を荒らし回っていた倭寇の取り締まり問題での対立が引き金となって、即位翌年の1419年対馬を攻撃した(応永の外寇)(この外征は当時まだ上王として実権を握っていた太宗の意向が反映していたものであった)[2]。その後、外交的解決に重きを置くようになり、世宗在位中には1428年1439年1443年通信使が派遣された。室町幕府との修好がなされ、富山浦など3つの開港場(三浦)を設けて、倭寇禁圧の要請が行われた[2]


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