与那嶺要
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与那嶺 要(ウォーリー・ヨナミネ)
Kaname Yonamine (Wally Yonamine)
巨人選手時代(1951年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ハワイ準州マウイ島
生年月日 (1925-06-24) 1925年6月24日
没年月日 (2011-02-28) 2011年2月28日(85歳没)
身長
体重175 cm
82 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手
プロ入り1951年
初出場1951年6月19日
最終出場1962年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


ラハイナルナ高等学校

フェリントン高等学校

ハワイ朝日

読売ジャイアンツ (1951 - 1960)

中日ドラゴンズ (1961 - 1962)

監督・コーチ歴


中日ドラゴンズ (1963 - 1966)

東京オリオンズ
ロッテオリオンズ
(1967 - 1969)

中日ドラゴンズ (1970 - 1977)

読売ジャイアンツ (1978 - 1980)

南海ホークス (1981 - 1982)

西武ライオンズ (1983 - 1984)

日本ハムファイターズ (1985 - 1988)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年1994年
選出方法競技者表彰
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ウォーリー・ヨナミネWally Yonamine
基本情報
ポジションランニングバック
生年月日 (1925-06-24) 1925年6月24日
没年月日 (2011-02-28) 2011年2月28日(85歳没)
出身地 アメリカ合衆国
ハワイ準州マウイ島オロワル
身長:5' 9" =約175.3cm
体重:170 lb =約77.1kg
経歴
高校フェリントン・ハイスクール
所属歴

1947サンフランシスコ・フォーティナイナーズ

NFL 通算成績

レシーブ数3回
レシーブ獲得ヤード40ヤード
TDレシーブ0回
Player stats at ⇒NFL.com


Player stats at PFR

与那嶺 要(よなみね かなめ、本名:ウォレス・カナメ・ヨナミネ(Wallace Kaname Yonamine)、1925年大正14年)6月24日 - 2011年平成23年)2月28日)は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)マウイ島オロワル生まれのプロアメリカンフットボール選手(ランニングバック)、プロ野球選手外野手、左投左打)・コーチ監督(外国籍を有する監督としてはNPB史上初[1])。

父親は沖縄県、母親は広島県出身のハワイ移民日系2世[2]日本IBMの社長を務めたポール与那嶺は息子[3]

ウォーリー(Wally)という愛称で親しまれ、ウォーリー与那嶺と表記されることもある。
経歴
アメフトから野球に

小学生になると、夏休みには父親が働く製糖会社パイオニア・ミルのサトウキビ畑の刈り入れを手伝う。この家業の手伝いが「足腰の強さを培った」ともいわれている[4]。フェリントン・ハイスクールでは、アメリカンフットボールバスケットボール野球の万能選手だった[5]

俊足を買われ、1947年アメリカンフットボールサンフランシスコ・フォーティナイナーズ(当時はNFLとは別のAAFCというリーグに所属していた)に契約金14,000ドルで入団。ハーフバックとして活躍するが、同年オフにハワイへ帰郷した際、野球を楽しんでいたところ左手首を骨折したことが原因で、49ersを退団。次にハワイアン・ウォリアーズでプレーするが、2年目に左肩を脱臼してフットボール選手としての現役続行を断念した[6]

1950年野球に転向し[7]マイナーリーグAAA級サンフランシスコ・シールズ傘下のC級ソルトレイクシティ・ビーズ(英語版)に入団する。同年は打率.335を打ってリーグ5位に入り、翌年の2A昇格が決まっていた。しかし、同年オフにホノルルで行われた、ハワイ選抜対パ・リーグ選抜に出場して日本プロ野球選手の好待遇を知り、与那嶺は日本でのプレーを望む[6]
現役時代

日米球界の架け橋となったキャピー原田によって読売ジャイアンツに紹介され[8]、シールズ監督のレフティ・オドールの勧めもあって[9]1951年シーズン途中の6月2日に来日する。しかし、アメリカ国籍の選手が日本プロ野球でプレーするのは戦後初めてだったことから、日本人への影響を踏まえて慎重に検討され、6月19日になってようやく2年契約の年俸100万円で読売ジャイアンツ入団を果たす[7]。戦後初の外国人選手となった[10][6]。与那嶺は入団までしばらく野球ができなかったことから、東京の町でランニングをしていた。特に、朝早くの皇居ランニングを気に入っており、当時ハワイから来日していたダド・マリノと一緒に走ったこともあったという[11]

同年6月19日の対中日ドラゴンズ戦でデビュー。2点リードされた7回裏無死一二塁の場面で、代打を探すためにコーチボックスからダグアウトへ戻った監督水原茂に対して、与那嶺は「I'll try!」(やります!)と叫び、初打席に代打として起用される(事前に何も言われておらず準備もしていなかったところに、突然水原から代打を命ぜられたともいう)[12]。そこで与那嶺は杉下茂からいきなり三塁線に絶妙のセーフティバントを決めた。翌20日の対広島カープ戦では小松原博喜に替わって「7番・左翼手」で先発出場して4打数2安打を打つと、そのまま左翼手のレギュラーに定着。8月末以降は1番打者に起用されるようになった。

優れた打撃技術だけでなく、同年9月12日の対国鉄スワローズ戦で1イニング3盗塁と2イニング連続本盗を記録した持ち前の快足に加え、併殺崩しや本塁突入時の激しいクロスプレイなど、本場仕込みの走塁技術を発揮[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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