与謝野鉄幹
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誕生与謝野 寛(よさの ひろし)
1873年2月26日
京都府岡崎町(現京都府京都市左京区岡崎)
死没 (1935-03-26) 1935年3月26日(62歳没)
東京府東京市四谷区信濃町(現東京都新宿区信濃町)
墓地多磨霊園
職業歌人
国籍 日本
活動期間1894 - 1935
ジャンル和歌
文学活動ロマン主義(浪漫派)
代表作『東西南北』
五足の靴
デビュー作『東西南北』
配偶者浅田信子(離婚)
林滝野(離婚)
与謝野晶子(1901 - 1935)
子供与謝野秀(次男・外交官)
親族与謝野道子(秀の妻・評論家)
与謝野馨(孫・政治家)
与謝野達(孫・銀行家)
與謝野文子(孫・評論家)
與謝野久(孫・建築家)
赤松克麿(甥・政治家)
赤松常子(姪・政治家)
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与謝野鉄幹歌碑(備中松山城

与謝野 鉄幹(よさの てっかん、正字: 與謝野 鐵幹、1873年明治6年〉2月26日 - 1935年昭和10年〉3月26日)は、日本歌人。本名は与謝野 寛(よさの ひろし)。鉄幹は。後に慶應義塾大学教授文化学院学監。は同じく歌人の与謝野晶子[1]
経歴

京都府岡崎町(現在の京都府京都市左京区岡崎)に与謝野礼厳(尚?)の四男として生まれる。・礼厳は西本願寺支院、願成寺の僧侶であった。礼厳は庄屋の細見儀右衛門[2]の次男として生まれたが、京都府与謝郡(現在の与謝野町字温江)出身ということから、明治の初めより与謝野姓を名乗るようになったという。は初枝、京都の商家の出である。

1883年(明治16年)、大阪府住吉郡安養寺の安藤秀乗[3]の養子となる。 1889年(明治22年)、西本願寺得度の式をあげた後、山口県都濃郡徳山町(現在の周南市)の兄・赤松照幢[4]の寺に赴き、その経営になる徳山高等女学校の教員となり、同寺の布教機関紙『山口県積善会雑誌』を編集。そして翌1890年(明治23年)鉄幹の号をはじめて用いた。さらに1891年(明治24年)養家を離れ与謝野姓に復した。

徳山女学校では国語の教師を4年間勤めるも、女子生徒(浅田信子)との間に問題を起こしてしまい退職[注釈 1]。次いで別の女子生徒、林滝野と同棲して一子・与謝野萃(あつむ)[5]を儲けた。

1892年(明治25年)、徳山女学校を辞して京都へ帰る。11月ごろ上京して、落合直文の門に入る。1894年(明治27年)、短歌論『亡国の音―現代の非丈夫的和歌を罵る』(『二六新報』5月10日-5月18日)を発表。1896年(明治29年)出版社明治書院編集長となる。かたわら跡見女学校で教えた。同年7月、歌集『東西南北』、翌1897年(明治30年)、歌集『天地玄黄』を世に出す。その質実剛健な作風は「ますらおぶり」と呼ばれた。1899年(明治32年)、東京新詩社[6] を創立。同年秋、最初の夫人浅田信子と離別し林滝野と同棲し、麹町区に住む。

1900年(明治33年)、『明星』を創刊した。北原白秋吉井勇石川啄木などを見い出し、ロマン主義運動の中心的な役割を果たした。しかし、当時無名の若手歌人であった鳳晶子(のち鉄幹夫人)との不倫が問題視される。文壇照魔鏡[7] なる怪文書で様々な誹謗中傷が仕立て上げられたが、晶子の類いまれな才能を見ぬいた鉄幹は、晶子の歌集『みだれ髪』作成をプロデュースし、妻・滝野と離別[8]滝野はのちに正富汪洋と再婚した。1901年(明治34年)晶子と再婚し六男六女の子宝に恵まれた[9]

1901年(明治34年)8月、『みだれ髪』刊行。その名声は高く、『明星』における指標となる。同時に『明星』の隆盛のきっかけともなった。1907年(明治40年)には『明星』の新進詩人たちである太田正雄木下杢太郎)、北原白秋平野万里吉井勇を連れて九州を旅行し、その紀行文五足の靴』を発表。明治末期から大正初期の文壇に南蛮趣味を流行させた。後進にも恵まれ好調に見えた『明星』であるが、杢太郎・白秋・勇らが脱退し、1908年(明治41年)、『明星』は第100号をもって廃刊する[注釈 2]

その後の鉄幹は極度の不振に陥るが、1910年(明治43年)には歌集『相聞』、詩歌集『?之葉』[11]を出版。『?之葉』の中には「小曲」と題した世界で最初の五行詩集も含まれる。[12]1911年(明治44年)、晶子の計らいでパリへ行く。のち晶子も渡仏、フランス国内からロンドンウィーンベルリンを歴訪する。だが創作活動が盛んとなったのは晶子の方で、鉄幹は依然不振を極めていた。再起を賭けた労作、訳詞集『リラの花』も失敗するなど、栄光に包まれる妻の陰で苦悩に喘いだ。[13][14][15]

1915年大正4年)の第12回総選挙に故郷の京都府郡部選挙区から無所属で出馬したが、落選した。大正8年(1919年)に慶應義塾大学文学部教授に就任、昭和7年(1932年)まで在任し、水上滝太郎佐藤春夫堀口大学三木露風小島政二郎らを育てた。1921年(大正10年)に建築家・西村伊作、画家・石井柏亭そして妻・晶子らとともにお茶の水駿河台文化学院を創設。同じ頃、第二次『明星』を創刊し、「日本語原考」などを発表する。しかし1922年(大正11年)の森?外の死は、鉄幹にとって有力な庇護者を失うに等しい打撃であった。

1927年(昭和2年)に『明星』が再び廃刊となるが、1930年(昭和5年)に雑誌『冬柏』を創刊。1932年(昭和7年)、第一次上海事変に取材した「爆弾三勇士の歌」の毎日新聞による歌詞公募に応じ、一等入選を果たした。


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