与謝野晶子
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与謝野晶子
誕生鳳 志やう(ほう しょう)
1878年12月7日
日本 堺県和泉国第一大区(現:大阪府堺市堺区甲斐町東1丁・甲斐町西1丁)
死没 (1942-05-29) 1942年5月29日(63歳没)
日本 東京府東京市杉並区荻窪
墓地多磨霊園
職業歌人作家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴堺市立堺女学校技芸科
ジャンル短歌
主題恋愛感情・反戦思想
文学活動ロマン主義
代表作『みだれ髪』(1901年)
『君死にたまふことなかれ』(1904年)
配偶者与謝野鉄幹1901年 - 1935年
子供12人
与謝野秀(次男)
親族鳳秀太郎(兄)
鳳壽三郎(弟)
与謝野馨(孫)
与謝野達(孫)
与謝野文子(孫)
与謝野久(孫)
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与謝野 晶子(よさの あきこ、正字:與謝野 晶子、1878年明治11年〉12月7日 - 1942年昭和17年〉5月29日)は、日本歌人作家思想家。本名は与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓は鳳(ほう)[1]。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名から取ったもの。夫は、同じく歌人の与謝野鉄幹

雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。
経歴生家跡(大阪府堺市堺区甲斐町西1丁)[注釈 1]与謝野鉄幹晶子居住跡(東京逓信病院敷地内)夫・鉄幹と

鳳志やうは、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町東1丁・甲斐町西1丁[注釈 1])で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれた。家業は没落しかけており、3人目の女の子であったため両親から疎まれて育つ[2]。実の兄にはのちに電気工学者となる鳳秀太郎がいた。9歳で漢学塾に入り、三味線も習った。堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学すると『源氏物語』などを読み始め古典に親しんだ。また兄の影響を受け、「十二、三のころから、『柵草紙』(後には『めざまし草』)[注釈 2]『文学界』や紅葉露伴一葉などの小説を読むのが一番の楽しみ」(『明星』1906年5月)であった。16歳の時には、『文芸倶楽部』に鳳晶子の名前で投稿した短歌が載った[3]

20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。浪華青年文学会に参加の後、1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の関係になり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。翌年家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』(鳳晶子)を刊行し、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。のちに鉄幹と結婚、子供を12人出産している[注釈 3]

1904年(明治37年)9月、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。大町桂月との間にこの詩をめぐって論議がおこった。1911年(明治44年)には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿した。1912年(明治45年)、晶子は鉄幹の後を追ってフランスのパリに行くことになった。洋行費の工面は、森鴎外が手助けをし[注釈 4]、また『新訳源氏物語』の序文を書いた鴎外がその校正を代わった。同年5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に晶子のパリ行きを取り上げ、翌6日には晶子の出発の様子を報じた[注釈 5]。翌6月の『中央公論』では、晶子の特集が組まれた[注釈 6]敦賀港から船でロシアウラジオストク港へ渡りウラジオストク駅からシベリア鉄道に乗りモスクワ経由でパリへ旅立った。その際に詠んだ 「いざ、天の日は我がために金の車をきしらせよ、 颶風の羽は東より いざ、こころよく我を追へ。黄泉の底まで、なきながら、 頼む男を尋ねたる、その昔にもえや劣る。 女の恋のせつなさよ。晶子や物に狂ふらん、 燃ゆる我が火を抱きながら、 天がけりゆく、西へ行く、 巴里の君へ逢ひに行く。与謝野晶子」と書かれた石碑がウラジオストクの極東連邦大学東洋学院の敷地にある。

5月19日、シベリア鉄道経由でパリに到着した晶子は、9月21日にフランスのマルセイユ港から貨客船「平野丸」で帰国の途につくまでの4か月間、イギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れた。また帰国してから2年後、鉄幹との共著『巴里より』で、「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。」と、女性教育の必要性などを説いた。

1921年(大正10年)に建築家西村伊作と、画家石井柏亭そして夫の鉄幹らとともにお茶の水駿河台文化学院を創設する[3]。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させる。晶子は学監として女子教育を実践した[注釈 7][1]

子だくさんだったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した[7]。来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらっていたという。多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、残した歌は5万首にも及ぶ。『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。

1940年4月、京都の鞍馬山で行われる鉄幹の法要に出席のため関西に行き、旅から帰ってきたのち5月に脳出血で右半身不随になり、1942年(昭和17年)1月4日意識不明になる[8]。同年5月29日、狭心症尿毒症を併発し、荻窪の自宅で死去[9][10]享年65(満63歳没)。同年6月1日に青山斎場で彼女の葬儀・告別式が営まれ、高村光太郎が弔辞を読み上げ、堀口大學が挽歌を捧げた。戒名は白桜院鳳翔晶燿大姉[10]。墓は多磨霊園にある[11]。毎年堺市にある覚王寺では命日に、「白桜忌(はくおうき)」という法要がいとなまれている[12]


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