日本の政治家不破 哲三ふわ てつぞう
(上田 建二郎)
(うえだ けんじろう)
1966年10月26日
生年月日 (1930-01-26) 1930年1月26日(94歳)
出生地 日本 東京府豊多摩郡中野町
(現・東京都中野区)
出身校東京大学理学部物理学科
現職日本共産党名誉役員
所属政党日本共産党
称号衆議院永年在職議員
日本共産党名誉役員
日本共産党50年党員
配偶者妻・上田七加子(1928年 - 2020年)
親族父・上田庄三郎
兄・上田耕一郎
衆議院議員
選挙区(旧東京6区→)
比例東京ブロック
当選回数11回
在任期間1969年12月27日 - 2003年10月10日
日本共産党
第3代 中央委員会議長
在任期間2000年11月24日 - 2006年1月14日
日本共産党
第2・4代 中央委員会幹部会委員長
在任期間1982年7月31日 - 1987年11月29日
1989年5月29日 - 2000年11月24日
日本共産党
初代 中央委員会書記局長
在任期間1970年7月7日 - 1982年7月31日
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不破 哲三(ふわ てつぞう、1930年〈昭和5年〉1月26日 - )は、日本の政治家。日本共産党名誉役員。元党中央委員会議長。元衆議院議員(11期)。本名は上田 建二郎(うえだ けんじろう)で、「不破哲三」はペンネーム。
日本共産党元副委員長の上田耕一郎は実兄。父は教育評論家の上田庄三郎。
経歴1956年の不破
当時、上田家には「跡取り」がいなかったため、父子共々養子として引き取られる[要出典]。両親は高知県の出身[1]。
旧制東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)、第一高等学校を経て、東京大学理学部物理学科卒業。
1970年、40歳で日本共産党の書記局長に就任し[2]、当時マスコミから「共産党のプリンス」と呼ばれた。
1974年1月29日の予算委員会では、日本分析化学研究所が実施していた放射能測定で、データがねつ造されていることを指摘した(「米原子力潜水艦放射能測定不正事件」)[3]。
1982年に宮本顕治が中央委員会議長になり、不破が幹部会委員長に就任した。1984年にキューバのフィデル・カストロと3時間以上に及んで会談した。詳細は「日本とキューバの関係」を参照
1987年に公式には「心臓病のため」幹部会委員長を降り、第18回大会で新設された中央委員会副議長に就任した。村上弘委員長退任後、幹部会委員長に復帰した。選挙で党の躍進が続いた頃、マスコミから「スマイリング・コミュニスト」(微笑する共産主義者)(1998年度流行語大賞特別賞受賞)と呼ばれた[4]。
1998年、31年間対立・絶縁していた中国共産党との交流を再開した。
2000年の党大会で、中央委員会議長に就任。
2004年の党大会で、全面的な綱領改定の提案をおこなった。
2006年1月の党大会で、高齢などを理由に議長職を退任し、党中央委員会付属社会科学研究所の所長に就任した。なお、中央委員会議長職は不破の退任以後は空席となっていたが、2024年1月の党大会で志位和夫が就任した。また、この党大会で中央委員を退任し名誉役員となった[5]。
年表
1930年(昭和5年)教育評論家の上田庄三郎の次男として東京府豊多摩郡中野町(現・東京都中野区)に生まれる。
1947年(昭和22年)日本共産党に入党する。
1953年(昭和28年)東京大学理学部物理学科を卒業して、鉄鋼労連(現・基幹労連)に書記として就職する。
1964年(昭和39年)日本共産党中央委員に就任する。
1969年(昭和44年)衆議院議員に初当選する(東京都第6区、1996年の小選挙区制導入以後は比例東京ブロック単独で、連続10回当選)
1970年(昭和45年)日本共産党書記局長に就任する。
1982年(昭和57年)日本共産党幹部会委員長に就任する。
1987年(昭和62年)日本共産党中央委員会副議長に就任する。
1989年(平成元年)日本共産党幹部会委員長に再任する。
2000年(平成12年)日本共産党中央委員会議長に就任する。
2003年(平成15年)衆議院議員を引退する。
2004年(平成16年)日本共産党常任幹部会委員・日本共産党中央委員会付属社会科学研究所所長[6]。
2006年(平成18年)日本共産党議長を退任する。日本共産党常任幹部会委員留任。
2010年(平成22年)日本共産党常任幹部会委員・日本共産党社会科学研究所所長[7][8][9]。
2014年(平成26年)日本共産党常任幹部会委員留任[10]。
2017年(平成29年)日本共産党常任幹部会委員留任。
2020年(令和2年)日本共産党常任幹部会委員留任[11]。
2024年(令和6年)日本共産党常任幹部会委員を退任する。
名前の由来
『私の戦後六〇年 日本共産党議長の証言』の中で本人が「不破哲三」の由来について、自宅付近にあった塗装業者「不破建設」と、当時の職場である鉄鋼産業労働組合の「鉄」から名付けたと語っている。鉄鋼労連は総評系で日本社会党員(特に右派)が多数を占めていたため、機関誌「前衛」などへの寄稿の際このペンネームを使用していた。
実兄・上田耕一郎は、耕一郎と建二郎とで労農同盟を意味する命名であると語っている(経済2004年1月号での鶴見俊輔との対談での発言)。