不満の冬
[Wikipedia|▼Menu]
ジェームズ・キャラハン。不満の冬の期間にイギリスの首相を担当

不満の冬(ふまんのふゆ、英語: Winter of Discontent)は、1978年から1979年にかけてのイギリスの冬を指している。その期間に公共団体の労働組合がより大規模な昇給を求め、広い地域でのストライキがあった。ストライキはジェームズ・キャラハン率いる労働党インフレーション(以下ではインフレと省略)抑制を目的に労働組合会議に対立して行った継続的な給与の上限設定に伴って発生したものである。ストライキのあったその冬は当時までの16年間で最も厳しいものであった。

ストライキは労働党政府が公共団体に対し、インフレを抑制し民間団体への見せしめとする目的で昇給は5パーセント以内に維持するという規則を課すことで、労働組合との社会的な契約から強制的に離脱し、インフレを抑制しようとした企ての結果である。しかしながら複数の被雇用者の組合が相互に交渉を行い、雇用者と政府の決定を上回る上限で合意した[1]。1979年の2月までにはストライキの大半は終了していたが、政府がもっと早期にストライキを収束できなかったことは1979年の下院議員選挙におけるマーガレット・サッチャー保守党の勝利と労働組合の権限を抑制する法律制定への流れを助長した。公共団体の雇用者によるストライキの動きはリヴァプールやテームサイドで働く墓掘り人夫による非公式なストライキや、ゴミ収集業者によるストライキを含んでいた。加えて、NHS(国民保健サービス)の補助業者は病院の入り口を封鎖するためにピケラインを形成した。その結果、多くの病院が救急の患者のみの受け入れに限ることとなった[2]

「我らの不満の冬がようやく去り、ヨーク家の太陽エドワードによって栄光の夏がやってきた。わが一族の上に不機嫌な顔を見せていた暗雲も、今は大海の底深く飲み込まれたか影さえない……。」[3]というウィリアム・シェイクスピアの『リチャード三世』における冒頭の台詞に由来する。そしてこの表現を、その冬の出来事に最初に当てはめたのはIDS(収入データ報告)で書記をしていた記者のロビン・チャターだった。「不満の冬」は後にジェームズ・キャラハンの演説においても用いられ、『ザ・サン』も含むタブロイド(大衆紙の一種)がこの危機的状況を定義する際にも援用された[4][5]

1979年の早い頃から天候は猛吹雪と豪雪を伴い、とても厳しいものとなった。その冬は1962年から1963年の冬以来、最も寒い冬であった。その結果、複数の職種が営業不可能になり、消費が減少して、経済が悪化した[6]
背景

1969年に労働党の政治家ジェームズ・キャラハンは内閣の反動を率いた。その結果、「紛争の場において」と称するバーバラカッスル白書において、その概要が示されていた労働組合の改革の提案が破棄につながった。もし、カッスル白書が履行されていたならば、不満の冬の期間における活動の大半は違法になっていたであろう。

ハロルド・ウィルソンとキャラハンによる労働党政府は1972年に始まったインフレに対する戦いを、1974年の2月に当選するまで続けていた。インフレは1974年から1975年の8月にかけて26.9パーセントと最も悪化した。しかし、財政上の責務を市場に説明する一方で、彼らは大規模な失業の増加をなくすことを望んだ[7]。インフレを抑制する企画の一部として、政府は労働組合大会との「社会的な契約」に合意した。その契約は労働者への昇給を政府が定めた上限以下に押さえる自主的な収入政策を考慮するものだった。前政府は議会の立法に依る収入政策を行った。しかし、このようなことは今後生じないだろうと、社会的に合意がなされた[2]
第一・第二段階

収入政策の第一段階は1975年の7月11日に「インフレへの攻撃」と題する白書とともに告知された。この給料への上限の提案は、年間の所得が8,500ポンド以下の者全員に、一週間に6ポンドまでの昇給を許すものだった。労働組合大会(TUC)の一般会合は上記の提案を19票対13票で可決した。1976年5月5日に労働組合大会(TUC)は1976年の昇給のための概説された新しい政策を受け入れた。その政策は8月1日に始まるものだった。その政策では昇給は一週間につき2.50ポンドから4.0ポンドまでとされた。1976年10月8日の年間会合において、労働組合(TUC)は自由な団体交渉(つまり収入政策に規制されないような団体交渉)への回帰を求める動きを否決した。それは1977年8月1日に一度、第一段階の政策の期限が切れてからすぐのことだった。この新しい収入政策は第二段階の政策だった。
第三段階

1977年7月15日に財務省高官のデニス・ヒーリーは「乱闘騒ぎ」がないならば、自由な団体交渉への段階的な回帰を可能なものであるとする第三段階の収入政策を告示した。長引いた交渉の後に労働組合大会(TUC)は、第二段階の政策の下で1977年から1978年にかけて推奨された控えめな昇給を続けること、および前政策下で生じた給与についての議論を再開しようとしないことの二点について合意した。一方で政府は賃金交渉に干渉しないことに合意した。保守党は組合の権限と、1978年の夏以降の期間を包括する、より強力な政策が存在しないことを批判した。インフレ率は1977年を通じて下降し続け、1978年までには年間の比率は10パーセント以下になった。
5パーセントの上限

差し迫った賃金政策の終了に備えていたとき、国際的なインフレが不意に発生し、1978年7月21日には1978年から1982年の間における記録的な水準に到達しようとしていた。このためデニス・ヒーリーは新しい白書の導入を行った。それは、その年の8月1日から昇給を5パーセントとする指針を定める物だった[n 1]。TUCは7月26日に圧倒的多数でその上限設定を否決し、約束されていた通りの自由な団体交渉への回帰を主張した。しかし、10月7日には首相のジェームズ・キャラハンが予想外な宣告を行った。それは総選挙を秋には行うつもりはなく、春の選挙に備えて経済が改善された状態にしておくために冬の間給与の制限を続けるという内容であった。賃金の制限は公的には「第四段階」と位置づけられたが、大抵は「5%の制限」と言い表された。政府は法的な要請として5パーセントの制限を行わなかったが、その制限を破った者は民間であれ、政府の契約者であれ、罰則[要説明]を科すことが決定された。
イギリス・フォードの交渉

公式な指針ではないにしろ、イギリス・フォードによって設定された昇給は内密な努力を通じて交渉のための基準として受け入れられた。フォードは順調な一年間を過ごし、その労働者に大規模な昇給を行うことができるほどの余裕があった。しかしながら、会社は一方で政府との主要な契約者でもあった。それ故にフォードの経営陣は昇給を5パーセント以内とする指針の範囲内で行った。その反応として、主に運輸・一般労働組合(TGWU)から15,000ものフォードの従業員が9月22日に非公式なストライキを開始した。そのストライキは後に10月5日のTWGUによる正式なストライキに発展した。参加者の人数は57,000人にまで増加した。ストライキの間、ボクスホール自動車(ヴォクソール・モーターズ)の従業員は8.5パーセントの昇給を受け入れていた。政府の処罰を受ける可能性とストライキの損害が継続することを勘案した長い交渉の後に、フォードは最終的に彼らの提案を17パーセントまでへと引き上げ、政府の処罰を受け入れることを決意した。そしてフォードの労働者は11月22日に昇給を受けた。
政治的な困難

フォードがストライキを行っているとき、労働党の大会がブラックプールにおいて始まった。リヴァプールのウェイヴァーツリー選挙区労働党委員で、労働党内のトロツキー派の過激派の支持者であったテリー・ダッフィーは10月2日に動議に移った。その動議においては「政府は直ちに給与交渉への介入をやめるべきだ」とする主張がなされた。マイケル・フットはその動議を採決してはならないと提案したのに、決議は4,017,000票対1,924,000票で実行された。翌日、首相は敗北を認める形で、次のように発言した。「私は昨日のことは、民主主義における教訓だと考えている」と。しかし、首相はインフレに対する戦いを自身はやめないことも宣言した。

間もなくして、政府のイギリス下院議会での立場はますます悪化した。選挙前は労働党は3議席差で多数派だったが、補欠選挙を通じ、1976年にその地位を失った。その結果、1977年には票数の優位を維持するために自由党との連立を強いられることになった。ちなみに連立は1978年7月に消滅を迎えた。追加の議席獲得を北アイルランドに認める決断によってアルスター統一党からの一時的な支持獲得が可能となった。しかし、アルスター統一党の党員たちにとって、追加の議席を認可する法案が可決されれば、こうした支援が途絶えることは分かりきったことであった。アルスター統一党の棄権によって、政府は11月9日の不信任決議において312票対300票で敗れることになった。
TUCでのさらなる交渉

11月に半ばまでのフォードが5パーセントを超える昇給を実際に行うことは明白になっていた。政府は後にTUCとの集中した交渉に入り、給与の方針に関して合意に達することを望んでいた。その合意は争いを防ぎ、総選挙に向けた準備における政治的連帯を見せるような物だった。制限的で支配力が弱い解決策が考え出され、11月14日のTUCの総会に持ち込まれたが、会合の中で、票は14対14と拮抗し、議長の反対票により否決された。1978年の早い段階でTWGUでは、モス・エヴァンスが労働組合の指導者であるジャック・ジョーンズにとってかわられたことで、TUCの一般会合でもある重要な人事が変わった。エヴァンスは自身の組合のリーダーの権力が弱いことを証明したが、ジョーンズがTGWUに属する複数の職場代表による行動を抑えることが出来たかは疑問である。

フォードでの争いに決着がついた後、政府は11月28日に、220に上るその他のキャンペーンとともにフォードに対して賃金政策への違反のため、罰則[要説明] が科されるであろうことを宣告した。実際の罰則に関する宣告はCBI(英国産業連盟)により、すぐに反発を招き、それらの罰則の適法性への異議が噴出した。保守党はこうした動議を下院議会で提議し、罰則の無効化を目指した。国防に予算を使いすぎていることへの同様な反発が労働党内の左翼系議員から生じたために12月7日に予定されていた議論は延期を余儀なくされた。しかしながら12月13日には罰則に反対する改正案が285対279で可決された。実質的な修正案はその後に285票対283票で可決された。ジェームズ・キャラハンは翌日のさらなる信任案の動議を290票対300票と10票差で勝利して可決を防いだものの、政府が罰則を科すことができないことを受け入れた。事実上、このことによって政府は民間企業に対して5パーセントの昇給制限を課すことが出来なくなった。
トラック運転手

政府がその給与政策を強制する手段がなくなると、まだ賃上げを申し込んでいなかった組合がその目的を拡大させ始めた。最初に極端な行動に出たのはTGWUのメンバーのトラック運転手らだった。トラック運転手の大部分が石油タンカーで働いていた。BPやEssoで働く運転手らは12月18日に、石油供給が混乱に陥ったことに伴い、内閣府は「ドラムスティック作戦」の準備を始めた。それより、イギリス陸軍がタンカー操縦者からの引き継ぎを行うための代替要員とされた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:38 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef