不来方城
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岩手県
盛岡城
別名不来方城
城郭構造連郭式平山城
天守構造御三階櫓(1842年以降は天守)
不明3重(1633年築)
独立式層塔型3重3階(1676年再 非現存)
築城主南部信直
築城年1598年
主な改修者南部重直
主な城主南部氏
廃城年1871年
遺構石垣、土塁、堀、移築土蔵・門
指定文化財国の史跡
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度41分59.81秒 東経141度9分0.4秒 / 北緯39.6999472度 東経141.150111度 / 39.6999472; 141.150111座標: 北緯39度41分59.81秒 東経141度9分0.4秒 / 北緯39.6999472度 東経141.150111度 / 39.6999472; 141.150111
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盛岡城(もりおかじょう)は、岩手県盛岡市陸奥国岩手郡)にあった日本の城1937年(昭和12年)4月17日に国の史跡に指定されている[1]。また、2006年(平成18年)には日本100名城に選定されている[1]

別名は不来方城(こずかたじょう)であると一般に理解されているが、厳密には盛岡城の前身であり、両者は別の城郭である。
概要

「盛岡城」は南部(盛岡)藩南部氏の居城である。西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地、現在の盛岡市中心部にあった花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城である。本丸の北側に二の丸が配され、本丸と二の丸の間は空堀で仕切られ現在は朱塗りの橋が架かっているが、存城当時は廊下橋(屋根付橋の一種)が架けられていた。さらにその北側に三の丸が配され、本丸を囲むように腰曲輪、淡路丸、榊山曲輪が配された。本丸には天守台が築かれたが、幕府への遠慮から天守は築かれず、天守台に御三階櫓が建造され代用とされた。後、1842年天保13年)に12代利済により天守へと改称されている。

白い花崗岩で組まれた石垣は、土塁の多い東北地方の城郭の中では異彩を放っている。建造物は明治初頭に解体され、現存するものは少なく、城内に移築された土蔵と、市内の報恩禅寺(名須川町1-5)に移築されたとされる門が残る。なお、移築門については城門であった確証は得られていない。また、清水寺に、いずれかの門か定かではないが城門が、木津屋本店奥土蔵(南大通3-20)、岩手川(旧・浜藤酒造、鉈屋町10番)に土蔵が再移築され現存する。また、徳清倉庫(仙北1-13-7)に二の丸にあった勘定奉行所の一部が移築されている。ほか、日露戦争で戦死した南部家第42代当主、南部利祥を表彰した騎馬像「南部中尉銅像」が1908年に建立されたが、太平洋戦争中の1944年金属供出で持ち去られ、現在に至るまで台座しか残されていない(櫻山神社に胸像部の鋳型が、馬の頭の部分の鋳型が名須川町の報恩寺に現存する)。

現在の盛岡城址は、近代公園の先駆者である長岡安平の設計により、1906年に『岩手公園』として整備され(ただし、後述の問題あり)、当地で学生時代を過ごした宮沢賢治の詩碑や、石川啄木の不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心

と刻まれた歌碑などが公園内にある。
歴史・沿革
近世以前

平安時代後期にあっては、清原武則[2]の甥橘頼為の本領として『陸奥話記』に記された「逆志方」とは、不来方のことであるという説がある[3]
近世
安土桃山時代

1590年天正18年) - 陸奥国北部を勢力下に置く南部氏は、安土桃山時代に天下統一を果たした豊臣秀吉より、当主の南部信直が5ヶ郡(閉伊郡岩手郡鹿角郡紫波郡、ならび糠部郡[4])の所領を安堵された。

1591年(天正19年) - 九戸政実を倒し、三戸城から九戸城(のち「福岡城」と改める。現在の二戸市福岡に当たる。)に本拠を移した。失領していた津軽3ヶ郡平賀郡鼻和郡田舎郡)の代替地として和賀郡稗貫郡の2ヶ郡が加増されて、7ヶ郡10万石の所領を安堵された。

1592年文禄元年) - 蒲生氏郷浅野長政より九戸では北辺に過ぎるとの助言を受け、不来方の地を本拠とすべく整地を開始。

1598年慶長3年) - 京都にあった信直は嫡男の利直に築城を命じ、兵学者の内堀伊豆を普請奉行として築城に着手した。

これより先、南部氏の臣下である福士慶善淡路が不来方の地に設けた「慶善館」が、すなわち本来の「不来方城」である。福士氏は南部氏が滅ぼしたその庶家の九戸氏と縁戚関係にあり、これを忌避した南部氏が不来方から福士氏を遠ざけたことにより、当地は南部氏の居城となった。

1599年(慶長4年) - 信直が病没。

1600年(慶長5年) - 関ヶ原の戦いで利直は東軍に属したため徳川家康より所領を安堵された。

江戸時代石垣

慶長年間(-1615年)には総石垣の城としてほぼ完成、利直は地名を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込め、「不来方」から「盛岡」に改めた。なお、利直が三の丸を整地した際に見つかった烏帽子岩(宝大石)は現在も三の丸跡に鎮座し、櫻山神社(旧・淡路丸大明神)の社宝として崇敬されている。

築城と共に城下町の建設を進め、中津川以北の湿地帯を埋め立てて市街地とした。また、中津川には「上ノ橋」「中ノ橋」「下ノ橋」(盛岡三橋)が架橋された。

1609年(慶長14年) 「上ノ橋」に、1611年(慶長16年)には「中ノ橋」に、それぞれ城下町建設を記念して、旧府・三戸から移された青銅製の擬宝珠が付けられた。現存する「上ノ橋」の擬宝珠は、国の重要美術品に認定されている。

盛岡城の全城が竣工したのは3代藩主重直の時代、1633年寛永10年)である。翌1634年(寛永11年)失火により本丸を焼失し、一時、福岡城(九戸城)を居城とした。翌年の1635年(寛永12年)には修復され、再び盛岡城に戻り、以後、盛岡藩の藩庁として明治維新を迎えた。

近現代本丸二の丸

1871年明治4年) - 廃藩置県により廃城。

1874年(明治7年) - 廃城令では当初存城とされたが、老朽化が著しく一般に払い下げとなり、ほとんどの建物が解体移築された。その後、陸軍用地となった土地の建物を除いて旧藩主南部家に払い下げとなる。

1906年(明治39年) - 岩手県に貸与され、長岡安平の設計により「岩手公園」として開園した。

1934年昭和9年) - 盛岡市が旧城地を南部家より買収する[5]

1937年(昭和12年) - 城跡が「濠湟石壁土壘尚ヨク存シ舊規模ノ見ルベキモノアリ」[6]として国の史跡に指定された。

1956年(昭和31年) - 岩手公園として都市計画決定。一般公園として開設。

1980年(昭和55年) - 総合公園として開設。

1989年平成元年) - 日本の都市公園100選に選定。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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