不戦条約
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「戦争放棄」はこの項目へ転送されています。日本国憲法第9条については「日本国憲法第9条」をご覧ください。

戦争放棄に関する条約

通称・略称ケロッグ=ブリアン条約、パリ不戦条約
署名1928年8月27日
署名場所パリ
発効1929年7月24日
現況有効
締約国

原署名国 15ヵ国

イギリス

フランス共和国

ドイツ国

イタリア王国

アイルランド

ベルギー

ポーランド

チェコスロバキア

南アフリカ連邦

カナダ

アメリカ合衆国

オーストラリア

ニュージーランド自治領

イギリス領インド帝国

大日本帝国


締結国 63ヵ国

寄託者アメリカ合衆国政府
文献情報昭和4年7月25日官報号外条約第1号
言語フランス語、英語
主な内容国際紛争を解決する手段として、締約国相互での戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した
条文リンク条約本文 - 国立国会図書館デジタルコレクション
戦争放棄に関する条約 (PDF) - 外務省
ウィキソース原文
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不戦条約(ふせんじょうやく、(.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}戰爭抛棄ニ關スル條約)は、第一次世界大戦後に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段として、締約国相互で戦争の放棄を行い、紛争は平和的手段により解決することを規定した。パリ条約(協定)、パリ不戦条約、ケロッグ=ブリアン条約(協定)とも言う。
呼称

フランスのパリで締結されたためにパリ条約(協定)(Pact of Paris)あるいはパリ不戦条約と呼ぶこともあり、また最初フランスとアメリカの協議から始まり、多国間協議に広がったことから、アメリカの国務長官フランク・ケロッグと、フランスの外務大臣アリスティード・ブリアン両名の名にちなんでケロッグ=ブリアン条約(協定)(Kellogg-Briand Pact)とも言う。
概要

1928年(昭和3年)8月27日アメリカ合衆国イギリスドイツ国フランスイタリア王国大日本帝国などの当時の列強諸国をはじめとする15ヵ国が署名し、最終的にはソビエト連邦など63か国が批准した。

この条約の成立は、国際連盟規約ロカルノ条約と連結し国際社会における集団安全保障体制を実質的に形成することになった[1]。すなわち19世紀の国際法によれば至高の存在者である主権国家は相互に対等であるので戦争は一種の「決闘」であり国家は戦争に訴える権利や自由を有すると考えられていたが、不戦条約はこの国際法の世界観(無差別戦争観)の否定であり、一方で連盟規約違反やロカルノ条約違反をおこなう国に対しては不戦条約違反国に対する条約義務からの解放の論理が準備され、「どの国家にせよロカルノ条約に違反して戦争に訴えるならば、同時に不戦条約違反ともなるので、他の不戦条約締約国は法的に条約上の義務を自動免除され、ロカルノ条約上の制約を自由に履行できる」[2] と解釈された(制裁戦争)。

この条約はその後の国際法における戦争の違法化、国際紛争の平和的処理の流れを作る上で大きな意味を持った。一方で加盟国は原則として自衛権を保持していることが交渉の過程で繰り返し確認されており、また不戦条約には条約違反に対する制裁は規定されておらず、国際連盟規約やロカルノ条約など他の包括的・個別的条約に依拠する必要があった。そのほかにも自衛戦争の対照概念たる「侵略」の定義がおこなわれておらず、第一次大戦で多大な効力を発揮した経済制裁(ボイコット、拿捕や敵性資産の没収等)が戦争に含まれるのか不分明であり、また戦争に至らない武力行使、国際的警察活動(海賊やテロリストの取締、とくに他の締約国内での武力行使を伴う)、中立国の権利義務など不明確な点を多く含んでいた。しかもこの条約は加盟国の戦争放棄を一方的宣言するものではなく、あくまで「締約国相互の不戦」を宣言する(前文・1条・2条)ものであり、その加盟国相互の国家承認問題についても曖昧に放置されたものであった(後述)。ケロッグは1928年4月28日にアメリカ国際法協会において新条約の説明演説を行い、自衛権について、アメリカの条約案は自衛権を決して妨げるものではなく、あらゆる条約は自衛権を含意しているとし、そして自衛の定義についてはその定義を悪用するのは容易であるからとして明文の規定を置くべきではないと述べた[3]。条約批准に際し、アメリカは、自衛戦争は禁止されていないとの解釈を打ち出した。またイギリスとアメリカは、国境の外であっても、自国の利益にかかわることで軍事力を行使しても、それは侵略ではないとの留保を行った。アメリカは自国の勢力圏とみなす中南米に関しては、この条約が適用されないと宣言した。アメリカは1927年にニカラグアへ内政干渉しており、その積極的な役割をヘンリー・スティムソン(のち国務長官)がおこなっていた。また1929年の大恐慌以降、30年から31年にかけて中南米20カ国で10回の革命が発生するなど現実的な事情を抱えていた[4]。一方でハーバート・フーヴァー大統領のもとで国務長官になって以降のスティムソンは錦州および南満州問題に関する「スティムソン・ドクトリン」(1932年1月)において明示的に不戦条約(パリ平和条約)に言及し道義的勧告(moral suasion)に訴えた。

世界中に植民地を有するイギリスは、国益にかかわる地域がどこなのかすらも明言しなかった。国際法は相互主義を基本とするので、「侵略か自衛か」「どこが重要な地域であるのか」に関しては当事国が決めてよいのであり、事実上の空文と評されていた。

この条約は1927年4月6日、アメリカの第一次大戦参戦10周年記念日にフランス外務大臣ブリアンが米国連合通信に寄稿したメッセージが端緒であり、6月11日にアメリカがフランスに交渉の用意ありと通知したことから具体化した。当初は米仏2国間だけの恒久平和条約を想定していたがアメリカの提案により多国間条約として検討することとなった。日本政府は1927年6月の段階で主要6列強国(日英米仏独伊)による条約締結に内諾を通知した。

不戦条約が持ち上がった1927年春から1928年当時、日本は田中義一内閣で、1927年当初の中国は上海クーデター以降の混迷状態にあり、日本は奉天派北京政府を中華民国(支那共和国)の正統政府としていた。これは対華21カ条要求など条約上の対中権益を維持するためであったが、1928年春には第二次北伐が開始され、山東出兵張作霖爆殺事件など中国大陸をめぐる政情は急激に変化しており、日本政府が不戦条約を打診された1927年春の段階とは情勢は大きく異なることになった。

日本にとっては?介石国民党政府が中華民国としてこの不戦条約に新規加盟するかどうかは重要な問題であり、外務省はこの問題について1928年11月の段階で、@?介石政府を中華民国正統政府とみなしていないので?介石が中華民国として不戦条約に加盟申請しアメリカが受理し日本に通告してきても日本政府はそれには拘束されない、A国家として未承認の政治上のグループ(主体)がこの条約に新規加盟を申請した場合の取り扱いについては条約上不分明であるが、既存加盟国はその申請を明示的に拒否せずとも、申請主体を国家主体として暗黙に承認したということにはならない(過去の外交事例上)、Bアメリカが条約上の義務(3条)として中華民国の批准を電報通告してきた場合に、それに対して明示的に拒否せずとも承認したということにはならない(過去の外交事例上)、と解釈していた[5]


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