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「最北の不凍港」といわれるハンメルフェスト(ノルウェー)
不凍港(ふとうこう、英: Warm-water port/Ice-free port、独: Eisfreier Hafen)は、地理学、地政学の用語で、冬季においても海面等が凍らない港、または砕氷船を必要としない港。高緯度にある港湾は厳冬期にしばしば凍結するが、ノルウェーのフィヨルド地域にみられる諸港やロシアのムルマンスク、ポリャールヌイのように、高緯度であっても暖流の影響で不凍港となる場合がある。不凍港は軍事的・経済的な価値が大きい。 熱帯・乾燥帯・温帯に属する諸地域の港湾は通常、冬季であっても凍結しないのが普通であり、したがって「不凍港」が話題になるのはもっぱら極に近い高緯度地方においてである。そうした中にあって「世界最北の不凍港」と称されるのがノルウェー北部のホニングスヴォーグ(北緯70度58分)とハンメルフェスト(北緯70度39分)である。どちらの港も暖流(北大西洋海流)の影響で1月でも水温が氷点下にならない。 北緯68度25分に立地するノルウェー西岸(ヴェストフィヨルド
概要
日本海流(黒潮)・北太平洋海流の末流である暖流のアラスカ海流もまた、アメリカ合衆国アラスカ州の南岸を流れ、沿岸のヴァルディーズやアラスカ最古の街シトカは不凍港を有する。それに対し、北極海(ボーフォート海)に臨むプルドーベイには油田があるが、アラスカ北岸のプルドーベイ港が一年のうち約9か月も凍結して使用できないため、南岸のヴァルディーズを石油の積出港としている。両地間には800マイル(1287キロメートル)におよぶトランス・アラスカ・パイプラインが敷設され、石油輸送がなされている。
ロシアにあっては、北極海(バレンツ海)のムルマンスク、太平洋(ベーリング海)のペトロパブロフスク・カムチャツキー、日本海のナホトカ(ボストチヌイ港)が不凍港となっており、前二者はやはり高緯度にあって、それぞれ海流の影響を受けている。
ウクライナのオデッサ、中国の大連、日本の釧路も重要な不凍港である。日本にあっては、釧路含めほとんどの港湾が不凍港であるが、北海道地方のオホーツク海沿岸では厳冬期に流氷がみられる。これは世界的には最も低緯度で確認できる流氷となっている。
ロシア史と不凍港「ロシアの歴史」、「南下政策」、および「ロシアの港一覧
不凍港は、ロシア史に関連して言及されることの多い用語である。18世紀以降海洋進出に乗り出したロシアは広大な面積を有するものの国土の大部分が高緯度に位置し、黒海・日本海沿岸やムルマンスク、カリーニングラード(旧ケーニヒスベルク)等を除き、冬季には多くの港湾が結氷する。そのため、政治経済上ないし軍事戦略上、不凍港の獲得が国家的な宿願の一つとなっており、歴史的には幾度となく南下政策を推進してきた。
ロシアの北に寄った国土は、冬が長く、寒冷・多雪などといった現象をもたらし、一部を除けば農業生産は必ずしも高くない。ここでは高い密度の人口を支えることが困難であり、人々はよりよい環境を求めて未開発の周辺地域に移ろうと努める[1]。中でもより温暖な南方の土地を求める願望には根深いものがある[1]。その他にロシア人は概して政治的権力による統制を極度に嫌うアナーキーな傾向を持ち、このようなロシア人気質はこうした膨張主義を助長しているといわれる[1]。人々は国家からの介入を嫌い、辺境へ、権力の外側へと向かおうとするのであるが、権力の側もむしろこれを利用して、人々が苦労して入植して開墾した土地に後から追いつき、その政治力・軍事力を用いて労せず入手するということが繰り返されてきた[1]。 港湾都市北緯海建設 ロマノフ朝初期のロシアにおける主要港は年間数ヵ月は氷に閉ざされる白海沿岸のアルハンゲリスクのみあり、黒海沿岸はオスマン帝国、バルト海への出口はスウェーデン(バルト帝国)によって支配されていた[2]。 17世紀後半から18世紀前半にかけてロシアの君主であったピョートル1世は、1695年、黒海への出口を求めてドン川畔のアゾフに遠征し(アゾフ遠征
ロシアの主な不凍港
ペトロパブロフスク・カムチャツキー53°1′ベーリング海(太平洋)1740年にロシア帝国のヴィトゥス・ベーリング探検隊により発見
セヴァストポリ44°36′黒海古代ギリシアの植民都市に由来
1783年にロシア帝国がクリミア・ハン国を併合
ウクライナ独立後から2014年までロシアが軍港を租借
2014年からロシアが実効支配
ノヴォロシースク44°43′黒海古代ギリシアの植民都市に由来
1829年にロシア帝国がオスマン帝国から編入
ウラジオストク43°7′日本海1860年にロシア帝国が建設
ナホトカ42°49′日本海1860年に清から沿海地方が割譲されるとロシア帝国が建設
ムルマンスク68°58′バレンツ海 (北極海)1916年にロシア帝国が建設
カリーニングラード54°43′バルト海1255年にドイツ騎士団が建設
1945年にソビエト連邦がナチスドイツから編入
海洋進出のはじまり「ピョートル1世 (ロシア皇帝)」も参照18世紀のヴォロネジ
ピョートルはまた、スウェーデンに対しては北方戦争(1700年-1721年)において好敵手カール12世を相手に優勢に戦いを進め、ニスタット条約によってカレリアの大部分、エストニア、リヴォニア、イングリアなどバルト海沿岸の地を獲得し、北方の強国として本格的に海洋に乗り出した。ロシア・ツァーリ国は「ロシア帝国」に改称、ピョートル自身も「ロシア皇帝」を名乗り、バルト海に臨むイングリアのサンクトペテルブルクに新都を築いた。1722年にペテルブルク港に入港した外国船は早くもアルハンゲリスクを上回った[5]。エストニアのタリン(レヴァル)やリヴォニア(現ラトビア)の港湾都市リガもロシア帝国領となった[注釈 1]。ただし、先述のアゾフ要塞は北方戦争中の1711年にプルート川の戦いでオスマン軍に包囲され、解囲の交渉の際にオスマン側に返還した。ピョートルによってロシア艦隊初の基地が置かれたアゾフ海沿岸のタガンログもまた破壊され、放棄された(プルート条約)[5]。ペトロパブロフスク・カムチャツキー港の中心部
ピョートルはさらに1702年、シベリアコサックの頭目ウラジーミル・アトラソフに命じてカムチャツカ半島を征服し、その後デンマーク出身のヴィトゥス・ベーリングに北東探検を命じた[1]。ベーリングは1725年から1730年まで、また1733年から1741年までの2度にわたり、カムチャツカ半島はじめオホーツク海やアラスカ地域を探検し、ユーラシア大陸と北アメリカ大陸が陸続きではないことを確認し、さらにアリューシャン列島を「発見」した[注釈 2]。
カムチャッカ半島に所在する不凍港ペトロパブロフスク・カムチャツキーの名は、ベーリングの第2次北東探検隊の2隻の探査船「聖使徒ペトロ(ピョートル)号」と「聖使徒パウロ(パーヴェル)号」にちなむ。アバチャ湾最奥部に立地する同港は天然の良港ではあるが、鉄道を含め、ロシアにおける他の諸地域とは陸上における連絡手段に欠けており、海上輸送に加え、現代では航空輸送に依存するところが極めて大きい。
エカチェリーナ2世と南下政策「エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)」も参照黒海に臨むセヴァストポリオデッサ港(ウクライナ)遠景