下関海峡
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航空機内から撮影した関門海峡。上が下関市、下が北九州市門司区 関門海峡を望む(火の山駅より撮影) 夜景(同上) 手前は下関港本港地区、その奥に三菱重工業下関造船所、造船所左は船島(巌流島)(海峡ゆめタワーから撮影) 手前の水路は本州と彦島を隔てる小瀬戸、左奥に関門海峡を挟んで北九州市が見える(海峡ゆめタワーから撮影)

関門海峡(かんもんかいきょう)は本州山口県下関市九州福岡県北九州市を隔てる海峡。名称は両岸の地名である、馬関(現在の下関市)の「関」と、門司(現在の北九州市門司区)の「門」を取ったものである。穴戸海峡(あなとかいきょう)、馬関海峡(ばかんかいきょう)、下関海峡(しものせきかいきょう)とも称された[1]。最深部は水深47m。潮流は大潮で最大10ノットを超えることもある。

通過時には4ノット以上の速力を維持することが義務付けられている。本州と九州を隔てる水路を大瀬戸(おおせと)といい、彦島と本州を隔てる水路を小瀬戸(こせと)または小門海峡(おどかいきょう)という。大瀬戸の幅が約600mまで狭まる壇ノ浦和布刈の間は早鞆の瀬戸(はやとものせと)という。

一般には大瀬戸の下関と北九州市門司区の間を関門海峡と呼ぶ。なお、海運業界では下関市彦島の周囲を迂回する形で門司区 - 小倉北区 - 戸畑区 - 若松区に抜けるルートが関門航路=関門海峡との認識である。

2017年、山口県下関市と福岡県北九州市にまたがる42件が「『関門“ノスタルジック”海峡』?時の停車場、近代化の記憶?」として日本遺産に認定された。
目次

1 歴史

2 交通

2.1 海上交通

2.2 陸上交通

2.3 事故


3 唱歌

4 脚注

5 関連項目

6 外部リンク

歴史

約6000年前 - 本州と九州が分断され、海峡が形成される。

1185年元暦2年/寿永4年)3月25日 - 壇ノ浦の戦い安徳天皇が入水、平家一門が滅亡。

1592年(文禄元年) - 豊臣秀吉文禄の役出征のために通過した時、暗礁で船が座礁する。秀吉は危うく難を逃れたが明石(石井)与次兵衛が過失の責任をとって切腹した。それ以降、この場所を与次兵衛灘と言うようになった。与次兵衛灘はその後、浮世絵や講談、歌舞伎の題材になっており、シーボルトによるスケッチも残されている。

1612年慶長17年)5月13日 - 宮本武蔵佐々木小次郎による巌流島での決闘が行われる。

1863年文久3年)7月16日 - 長州藩が馬関海峡を通過するアメリカ商船に砲撃を開始、翌年5月の下関戦争(馬関戦争)の原因となる。

1895年(明治28年)4月17日 - 日清戦争の講和条約(下関条約)が海峡に面した割烹旅館春帆楼」で調印。

1910年(明治43年) - 内務省が関門海峡第1期改良工事に着手。

1942年(昭和17年)11月15日 - 関門鉄道トンネルが開通。

1945年(昭和20年)3月27日から7月11日 - B29による機雷敷設が行われる。日本近海に投下された機雷は推定11000とされ、そのうち約5,000個が関門海峡に投下された。現在も約1700が未処理であると推定されている[2]

1958年(昭和33年)3月9日 - 関門国道トンネルが供用を開始する。

1973年(昭和48年)11月14日 - 高速道路関門橋が供用を開始する。

1974年(昭和49年)7月 - 関門航路港湾法による開発保全航路に指定される。

1975年(昭和50年)3月10日 - 新幹線新関門トンネルが供用を開始する。

2017年(平成29年)山口県下関市福岡県北九州市にまたがる42件が「関門“ノスタルジック”海峡[3]」?時の停車場、近代化の記憶?として日本遺産に認定される。


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