下野国
■-下野国
■-東山道
別称野州(やしゅう)
所属東山道
相当領域栃木県、群馬県の一部[注釈 1]
諸元
国力上国[注釈 2]
距離遠国
郡・郷数9郡70郷
国内主要施設
下野国府栃木県栃木市(下野国庁跡)
下野国分寺栃木県下野市(下野国分寺跡)
下野国分尼寺栃木県下野市(下野国分尼寺跡)
一宮宇都宮二荒山神社(栃木県宇都宮市)
日光二荒山神社(栃木県日光市)
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下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属し、現在の栃木県にあたる。 4世紀頃?毛野 古代関東には「毛野(けの/けぬ)」および「那須(なす)」と呼ばれる政治勢力が存在し、前者が上下に二分されて「上毛野(かみつけの/かみつけぬ)」・「下毛野(しもつけの/しもつけぬ)」となったといわれる[1][2]。毛野の起こりについては、『常陸国風土記』によると筑波はもともと紀の国であるといい、この紀の国と毛野が同一かは不詳だが、「毛野河」は筑波西部の郡の境界とある。また『続日本紀』では毛野川は古くから常陸国と下総国の境界であると記されているなど、毛野と毛野川(現在の鬼怒川)の深い関わりがうかがわれる。『上野名跡志
「下野」の由来と読み
毛野地域の変遷
5世紀末頃?上毛野下毛野那須
7世紀末上毛野国下毛野国
8世紀初頭上野国下野国
↓↓
現在の
都道府県群馬県栃木県
国名の上下については、上総国と下総国などと同様、一国を「上」と「下」に二分したものとされるが、備・越・筑・豊・肥などのように前後(または前中後)に分けられた国との違いは不詳である[3]。またこの分裂は史書に無く詳細は不明で、古くより議論がある(「毛野#毛野の分裂」を参照)。
『大宝律令』の制定にあたっては、下毛野の領域に那須の領域(栃木県北東部)を合わせ、「下毛野国(しもつけののくに/しもつけのくに)」として上毛野国とともに令制国の1つに定められたとされる[4](那須統合の時期は明らかとなっていない)。その後、下毛野国・上毛野国の国名は「下野国」・「上野国」に改名された。この際、「毛」の字は消えたものの「しもつけのくに」として、読みにその名残をとどめている。
「下野」の初見は『日本書紀』天武天皇5年(676年)5月条である[4]。また、藤原宮跡出土木簡には大宝3年(703年)に「下毛野国」の記載があり、律令制施行後の初見である[4]。 六国史(記紀)日本書紀によると、下野国の国造である下毛野君は紀元前50年(崇神天皇48年)に崇神天皇の命により東国を統治した豊城入彦命の子孫とされる。684年(天武天皇13年)に朝臣の姓を受けた下毛野君は、大宝律令編纂の中心人物のひとりで参議に列せられ直広肆・兵部卿・式部卿・造山陵司
沿革
下毛野君と下毛野一族
下野薬師寺は奈良時代初期に天武天皇が建立した官寺であり、当時の七大寺に数えられた寺院のひとつである[5]。・良時代天平期に定められた諸寺墾田地限
では下野薬師寺の墾田は500町とされ、奈良の大和国分金光明寺・元興寺・大安寺・薬師寺、興福寺・法華寺・弘福寺・法隆寺・新薬師寺・建興寺、河内の四天王寺、近江の崇福寺、筑紫の観世音寺と並び、中央政庁に管理されていた[6]。また平安時代中期の874年(貞観16年)、平安京紫宸殿で60人の僧により3日にわたって行われた大般若経の転読会に際しては、金字仁王経71部が五畿七道各国に一部ずつ配置されるなか、大宰府観世音寺、豊前国弥勒寺とならび下野薬師寺にもそのうちの一部が配置されるなど、平安時代においても当寺が鎮護国家政策の一環として官寺の位置付けにあったことが覗われる[7]。下野薬師寺は、8世紀後半の政争に巻き込まれた高僧の配流地としても著名であり、754年(天平勝宝6年末)には奈良薬師寺の僧行信と宇佐神宮主神の大神多麿呂らが[8]、また770年(宝亀元年)には孝謙上皇(後の称徳天皇(高野天皇))の寵愛を受け法王の称号と太政大臣の官職を歴任した弓削道鏡が[9]、下野薬師寺に遣わされている。道鏡は造下野薬師寺別当のまま下野国で没し、庶民の格付けで葬られた[10]。
奈良時代から平安時代中期の国勢